テラーノベル
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時は流れ、クラウスは十八歳になった。
クラウスが歩いていると、曲がった先の廊下から大臣たちの話し声が聞こえた。
「しかし、本当にあの王太子で大丈夫なのかね。公務でも何でもうまくできるらしいが、母親が子爵令嬢だと……、ねえ?」
「マルティス様のおっしゃる通り。卑しい身分の者の血が入った王太子が王になると思うと恐ろしい」
「陛下もさっさと再婚して、他の者を跡継ぎにすれば良いものを」
マルティスとその取り巻き二人の会話だった。
自分や母だけでは飽き足らず、国王である父まで侮辱するとは。
この王宮で、大した度胸だ。
いい加減、母が子爵令嬢だの卑しい身分だのうるさい。
……もううんざりだ。
クラウスはその夜、王宮を飛び出した。
父や周りに何と 言われても、もし首を切られても、それでも良かった。
ただ少しだけでも、何ものにも縛られない時間が欲しかった。
黒いローブを身にまとい、裏門を見張る守衛たちに、門を開けるよう促した。
守衛たちは戸惑ったが、王族を止める勇気はなかったらしい。
クラウスは守衛たちに感謝を述べ、フードを深く被って外に出た。
市街地の空気はきれいだった。
いるだけで息が詰まりそうになる王宮とは大違いだ。
クラウスはやっと手に入れた刹那の自由に喜んだ。
人目につかない路地を数十分歩くと、大きな通りに出た。
町の光は、王宮のようにギラギラとしたものではなく、温かくて穏やかなものだった。
……ああ、王都はこんな町だったのか。
クラウスは人々が心底羨ましくなった。
買い物袋を片手に通り過ぎていく母娘、赤ら顔で陽気に歌う男たち、笑い合いながらゆっくりと歩いていく老夫婦。
町は笑顔であふれていた。
クラウスは暗い世界にたったひとり取り残されたような気持ちになった。
そんな中、ある一軒の酒屋が目についた。
他の家と何ら変わりない、普通の一軒家だ。
しかし、クラウスは酒屋に何か惹かれるものがあるように感じた。
何も考えず、引っ張られるようにその酒屋に入った。
中は客でいっぱいで、わいわいとにぎやかだった。
と、ひとりの少女がクラウスの方を振り向き、美貌にぱっと笑顔を咲かせる。
「いらっしゃいませ!空いてるお席どうぞー」
クラウスはその瞬間、心臓が鷲掴みにされたように感じた。
胸がどくりと大きく高鳴り、思わず息を呑んだ。
すぐにはっとし、店の隅のカウンターに座る。
品書きを見、注文を決めて黙って挙手すると、あの少女が来た。
胸をばくばくと鳴らせながら品書きの文字を指差して注文する。
指差していた手を膝の上に下ろすと、少女はまたにこりと笑った。
「かしこまりました。少々お待ちください!」
クラウスの胸はまた大きく高鳴った。
と、厨房の方から女の声が響いた。
「エーファ、こっち手伝ってー」
「はーい!じゃあ失礼します」
少女は軽く頭を下げて、ぱたぱたと走り去っていった。
クラウスは胸の内で広がった、感じたことのない甘い感情に戸惑った。
嬉しいような楽しいような、妙な感情だった。
この時のクラウスは、これが何なのかさっぱりわかっていなかったのだ。
十数分ほどして、再度あの少女が来た。
クラウスの胸はしつこいほど高鳴った。
「こちら葡萄酒です」
少女はそう言って盆から一つのグロスを取ってクラウスの前に置いた。
クラウスがとりあえず胸を落ち着かせようと葡萄酒に手を伸ばそうとしたが、その前に、少女は言葉を続けた。
「……と、サービスの蜂蜜酒です」
クラウスは切れ長の目を見張った。
なぜ、どうして……。
自分はここに初めて来たのに。
クラウスが固まっていると、少女ははにかむように笑った。
「顔は見えないけど、お客さん、なんだか元気がなさそうに見えたので……。蜂蜜酒は飲まれないかもしれませんが、良かったらお召し上がりください」
クラウスはさらに瞠目した。
少女は白い頬を少し赤らめ、照れくさそうに、だがどこか誇らしげに、笑みを深めて続けた。
「私は、お客さんに幸せな気持ちで帰っていただくのが自分の役目だと思ってるんです。だから、あなたにも元気を取り戻していただきたい、です」
勘違いだったらごめんなさい、と少女はさらに頬を赤くさせて付け加えた。
クラウスは、何かきらきらと眩いものを見ているような気持ちになった。
衝撃を受けた。
温かくてやわらかなものに包まれたように感じた。
先程よりもずっと速く胸が高鳴った。
もはや彼女が光をまとった天使にさえ見えた。
……王都には、こんな優しいひとがいるのか。
クラウスが呆然としていると、店の奥の方から客の男の声が響いた。
「エーファちゃーん、注文頼むー」
「はーい、今行きます!」
少女は声がした方を一瞬向いて返事をすると、再度クラウスの方を向いた。
「じゃあ、私はこれで。あっ、両親には内緒にしてくださいね。お客さんと私だけの秘密です」
少女—エーファはふふっと悪戯っぽく笑って、店の奥の方に向かった。
クラウスははっとして、ふたつのグロスを見つめた。
そして、葡萄酒よりも先に蜂蜜酒に手を伸ばし、一口飲んでみる。
口に含んだ瞬間、クラウスの舌に甘さが広がった。
エーファの優しさが身に染みた。
しかしこの日、クラウスの胸の内には、蜂蜜酒よりもっとずっと甘い感情が芽生えた。
王宮に戻ると、やはりバルトロメウスに叱られた。
バルトロメウスは息子が心配でならなかったのだ。
しかし、クラウスにも積もるものはあるだろうからとたまにの外出は許可した。
それからクラウスは、数ヶ月おきにあの酒屋に通うようになったのだ。
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