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「お、小野くんじゃないか。君も俺を馬鹿にしにきたのかい」
「そんなわけないじゃないですか。先生、しっかりしてください」
蓮の狼狽えっぷりに、梗一郎は唇を噛んだ。
アンケートの集計作業中に、今度学会があると言っていたじゃないか。
論文が間に合わないと焦っていた姿を思い出す。
研究発表の機会がめぐってきたものの、思うような準備ができなかったということは容易に推察できた。
モブ子らの異様に分厚いレポートに時間を食われたせいだと、今さら言っても詮無いことだ。
しかも蓮は手汗を彼女らにからかわれるくらい、ひどく緊張する性質である。
先程かすかに触れた指先は冷たく、色を失っているではないか。
「す、すまないね。小野くん。君はバイトかい? 一体いくつ掛け持ちしてるんだい。やっぱり貧乏なのかい」
何気に失礼である。
しかし震える声で、蓮は何とか落ち着きを取り戻そうとしているのだと思われた。
ならばと梗一郎は話を合わせる。
ハラハラしながらも、先生の緊張が少しでもほぐれるならばと声は努めて明るいものだった。
「荒物屋とスーパーの早朝品出しと、ホテルの備品係、あとはうーばーいーつを始めました。夏休みは単発で設営のバイトでも入れようかなって思ってます」
「そっかそっか、ほんとに働き者だねぇ」
連の声がほんの少し柔らかくなったろうか。
──もう一息だ。先生をリラックスさせてあげなくては。
梗一郎は唇の端に力を入れて、ぎこちない笑顔を作ってみせた。
「そうだ。鳥獣腐戯画展でキューレーターの説明ツアーがあるんですけど、最終日に予約がとれたんです」
「ホゥ、それはいいねぇ」
「先生からは誘わないって仰ってたから。だからその……僕から誘ってもいいですか?」
「ホホゥ、それはいいねぇ」
「先生?」
何となく嫌な予感はしていた。
蓮の目は焦点が合っていないし、返事は生返事だ。
いつもノホホンとしている彼のこんな表情は初めて見る。
しかし梗一郎はここぞとばかりに続けた。
「今度こそ、一緒に行きませんか。鳥獣腐戯画展」
「フギガテン……?」
蓮が繰り返す。
その目がカッと見開いた。
「今はそんな場合じゃないんだよっ」
「す、すみません……」
理不尽である。
梗一郎が反論せずに謝ったのは、多数のアルバイトで社会の歪みを知ってしまったためか。
あるいはそこに愛情なるものが介在するせいか。
「先生は学校でもいつも緊張するなんて仰ってますけど、とても聞き取りやすくて分かりやすい講座だと思いますよ。大きな発表会なのかもしれませんけど、モブ子らの前だと思っていつものように……」
大人げなく気弱なこの講師を、何とかして慰めてやろうという気遣いは、しかし蓮には伝わっていないようだ。
「だって……ちゃんと歴史の勉強してきた立派な先生たちの前で発表するなんて、俺にはできないよ。BL学なんて鼻で笑われるだけだもん。ヒェッ!」
「何を言ってるんですか、先生」
突然のことだ。梗一郎の手が蓮の肩をつかんだ。
吃逆
しゃっくり
のような悲鳴は、蓮の喉から漏れたものである。
苛立たしげに細められた薄茶色の目に、小動物よろしく怯える蓮の顔が映っている。
「BL学は歴史上の人物の感情や関係性から事象を読み解く新しい学問だって言ってたじゃないですか」
「お、おのく……?」
「僕のことを夢中にさせるって言ったのは先生ですよ。その自信で、会場中も先生の話に夢中にさせてみてくださいよ」
つかんだ手に、無意識のうちに力が込められていたのだろう。
蓮の眉がぴくりと震えたことに気付き、梗一郎は慌てて手を離す。
「す、すみません……」
ポトリと地面に雨粒が落ち、梗一郎は無意識に天を仰ぎ見た。
木の葉の向こうに広がる空は、しかし清々しいまでの青色である。
ポトリ。
もう一度、雨粒が。
「うっ、ううっ……」
天と地をさまよう梗一郎の視線が止まった。
薄茶色の眼が見開かれる。
「せ、先生……?」
声が上ずったのは、いい年齢
トシ
をした講師の眼からポロポロと涙が零れているのを目撃したからだ。
「す、すみません。言葉がきつかったです。僕はその……先生の発表は立派なものなんだから。だから自信を持ってって言いたくて、その……」
焦りからだろう。
梗一郎も狼狽える。
彼の泳ぐ視線の先で、蓮が顔をあげた。
「ち、ちがうんだよ。小野くん、あの……っ」
その時だ。
派手な音をたてて通用口の扉が開いたのは。
「おーい、蓮? いるか?」
どこか呑気なその調子に、蓮が「あっ」と声をあげる。
「征樹兄ちゃん?」
「まさき?」
梗一郎の声に不審げな響きが混ざったのは、蓮の表情が緩んだことに気付いたからだ。
「こんなところにいたのか。探したぞ。何泣いてんだ?」
訝しむ梗一郎の姿など目に入らないというように近付いてきたのは、高そうなスーツを着こなした男である。
「征樹兄ちゃん」と呼ばれたように、実年齢は蓮よりも少し年上なのだろう。
落ち着いた雰囲気で、蓮を包み込むように傍らに立った。
「やっぱり隠れてたか。緊張したのか? それなら昔、教えてやったろう。手のひらに人って字を書いて飲みこむんだよ。あとは、客はみんなジャガイモと思って……」
「そんな昭和のマジナイが効くわけないだろ」
反抗する蓮の声にも、僅かにだが張りが戻ったような。
「あ、あの……」
本当のお兄さんなんですか──なんて質問は間が抜けていると感じ、梗一郎は口ごもった。
彼の戸惑いの声など、今の蓮の耳には届いてはいない。
「そろそろ発表の順番だぞ」という征樹の声に肩を強張らせた。
握りこぶしで目元をグイを拭うと、口の中でブツブツと何事か呟く。
緊張してガチガチに固まっているのが分かり、梗一郎は蓮の肩に手をのばした。
あやすように優しく触れれば、きっと先生は落ち着きを取り戻してくれるに違いないと思ったから。
しかしその肩に触れたのは、征樹兄ちゃんと呼ばれた男であった。
「発表がうまくできたら、またオムレツを作ってやるからな。トロトロのやつ」
コクリと頷いたのは蓮だ。
梗一郎のほうを振り仰ぎ何か言いかけ、しかし征樹に促されるように背を向けた。
「せんせ……」
取り残された梗一郎にチラと視線をくれたのは征樹である。
ようやくそこに人がいたことに気付いたというように、片眉をあげてみせた。
「生徒に展覧会を案内してやると言ってただろ。お人好しはお前の長所だが、キリがない。こうやって自分の首を絞めることになったら元も子もない」
返事はない。
元より発表に意識が向いている蓮の耳には届いてはいないようだ。
この言葉は自分に向けられたものだと、梗一郎は悟った。
蓮の研究の邪魔だと──突如現れたスーツの男は自分にそう突きつけているのだ。
「………………」
反論の言葉などあろうはずがない。
梗一郎はその場に立ち尽くし、蓮の後ろ姿を見つめていた。