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莉久⚁⚄[低浮上]
33
#ご本人様には関係❌
第6話 お前の香を消すな
熊が浴室にいる間に、龍清は夕食を完成させた。
煮込んだ肉と野菜を器へ盛り、卓上へ運ぶ。
熊の器には、初めから龍清の倍近い量を入れた。
それでも足りない可能性を考え、鍋には少し多めに残してある。
やがて浴室の扉が開いた。
任務の汚れを落とし、替え衣へ着替えた熊が戻ってくる。まだ乾ききっていない髪から、雫が肩へ落ちた。
「もうできるぞ。座れ」
「ああ」
熊はいつもの場所へ座った。
龍清も向かいへ腰を下ろす。
特別な料理ではない。
祝いの日でも、何かの記念日でもなかった。
任務から帰った男が風呂へ入り、二人で夕食を取る。
ただ、それだけの時間だった。
熊が一口食べる。
「どうだ」
「うまい」
「そうか」
熊は続けて箸を動かした。
大きな器の中身が、目に見えて減っていく。
「お前、もう少しゆっくり食えよ。誰も取らないぞ」
「腹が減っていた」
「それは見れば分かるけどな」
龍清は熊の器を見た。
「足りるか?」
「多分」
「多分って何だよ。鍋にまだあるから、足りなかったら自分で入れろ」
「ああ」
熊は頷き、今度は龍清の左腕へ目を向けた。
「痛むか」
「もうほとんど痛まない。お前が巻き直した処置布もずれてないよ」
「ならいい」
「飯を食いながらまで傷の確認をするな。医療官みたいになってきたぞ」
「お前が自分の傷を雑に扱うからだ」
「はいはい。悪かったって」
龍清はそう言いながら笑った。
熊も、ほんの少しだけ口元を緩める。
会話が途切れても、気まずさはなかった。
器と箸の触れる音だけが、静かな室内へ落ちる。
熊は結局、鍋に残っていた分もほとんど食べた。
「多分どころじゃなかったな」
「足りた」
「そりゃよかったよ」
*
食事を終えたあと、二人は長椅子へ並んで座った。
熊は明らかに疲れていた。
背を預けたまま動かず、呼吸もいつもより深い。
「眠いなら、先に寝ていいぞ」
「まだ寝ない」
「さっきから目、ほとんど閉じてるけどな」
「閉じていない」
「そうかそうか」
龍清は笑い、熊の肩へ自分の肩を軽く預けた。
熊は何も言わなかった。
ただ、触れた場所から少しだけ力が抜ける。
戦闘任務の最中、この男は常に周囲の気配を拾っている。
敵意。
危険。
味方の動き。
香の乱れ。
帰還してからも、龍清のわずかな香漏れを扉の前から嗅ぎ取った。
それほど鋭く張り詰めている男が、龍清の部屋では時折、嘘のように警戒を解く。
しばらく二人で何をするでもなく過ごし、龍清は立ち上がった。
「さて。じゃあ、俺も風呂に――」
傷のない右手首へ、大きな手が触れた。
「待て」
熊の声だった。
龍清が振り返る。
「何だよ」
「もう少し、ここにいろ」
「風呂くらい行かせろ。すぐ戻ってくるって」
「お前の香を消すな」
「なっ……」
熊の手に、わずかに力が加わった。
強引に引き倒すほどではない。
龍清が拒めば、すぐに放せる力だった。
それでも龍清は抵抗せず、引かれるまま長椅子へ戻った。
熊の腕が腰へ回り、その大きな身体が覆い被さる。
負傷した左腕には決して体重をかけない。
「ちょ、おい。待て待て、魁篤」
熊の顔が、龍清の首元へ近づく。
「今は、そのままがいい」
風呂で薄れる前の龍清の香。
仕事中にまとった施設の香も、夕食を作った時の匂いも、この部屋で過ごす普段の香も残っている。
その中に、手当てを終えた傷から滲む、ごく微かな乱れも混じっていた。
熊にとっては、任務から帰り、この場所へ辿り着いたことを確かめられる香だった。
「そのままって……」
龍清は、自分が台所で口にした言葉を思い出した。
――後でなら。
確かに言った。
触れていいと、自分から伝えた。
熊の顔は首元へ埋められ、腰を抱く腕も緩まない。
「は、はは……お前、まさか最初からこれを待ってたのか?」
返事はない。
龍清の心臓が速くなる。
(このままかよ……!)
何をされるのか。
どこまで触れられるのか。
自分から「後で」と言っておきながら、いざその時になると覚悟が追いつかない。
「せめて、そういう顔で黙るのはやめろ。こっちにも心の準備ってものが――」
熊は何もしてこない。
「……?」
首元へ顔を埋めたまま、動かない。
重い。
「おい?」
返事がない。
「ちょっと待て。本当に何なんだよ」
龍清は熊の肩へ手を置いた。
「……魁篤?」
それでも返事はなかった。
代わりに聞こえてきたのは、深く、静かな寝息だった。
「…………」
戦闘任務の疲労。
満腹になった身体。
慣れた部屋と、龍清の香。
張り詰めていたものがすべてほどけ、そのまま眠ってしまったらしい。
龍清はしばらく動けなかった。
完全に覚悟していた自分だけが、熊の重みの下へ取り残されている。
「……プッ」
やがて、堪えきれずに吹き出した。
「名前で呼べって言ったくせに、聞いてねえじゃねえか」
返事はない。
「は、はは……ほんと、困った熊さんだなぁ。お前は」
かつては、身体の奥に生じた熱へ押されるまま、龍清を寝台へ引き倒した。
触れたいという思いを、どう伝えればいいのかも知らなかった。
今は違う。
戦闘任務を担い、傷ついた龍清へ適切な処置を施せる。
由来反応で事故を起こした男の事情を理解しながら、それでも龍清が傷つくのは嫌だと言える。
触れる前に尋ねられる。
危ないと言われれば、すぐに離れられる。
卒業まで待てと言われれば、本当に待てる。
本当に変わった。
それでも、龍清のそばへ戻ると警戒を解きすぎるところだけは、昔と変わっていない。
「……俺の前だと、昔から警戒心がなくなるな」
龍清は右手を伸ばし、長椅子の端に置かれていた毛布を引き寄せた。
自分へ覆い被さったまま眠る熊の広い背へ掛ける。
無理に退かそうとはしなかった。
少し重い。
だが、不快ではない。
熊はもう利用者ではない。
龍清が一方的に世話をする相手でもなければ、龍清を一方的に守る男でもない。
互いに支え、互いの前でだけ無防備になれる恋人だった。
「……魁篤」
今度は起こさないよう、小さな声で呼ぶ。
返事はない。
それでも、その名で呼ばれた男は龍清の腕の中にいる。
龍清は笑い、熊の背へ回した手で毛布を整えた。
「おやすみ、魁篤」
もうしばらく、この重みを受け入れることにした。
コメント
1件
いやあ、もう冒頭から空気感が違うんですよね。熊が「お前の香を消すな」って言うところ、あれは単なる甘えじゃなくて、帰還したことの確かめ合いというか、張り詰めた戦闘任務から戻ってきた男が、初めて安全を感じられる場所の象徴みたいで。しかも、かつては衝動で引き倒していた男が、今は「待て」と伝えてから触れる。卒業まで待てるところも含めて、変わったんだなと。最後の「おやすみ、魁篤」で、もう利用者じゃない関係性がぎゅっと詰まってて、とても温かい回でした。