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聖ラムゼリカ焚書寺院は蒸留酒を知らぬ少年のように新しく、三度死にかけた老兵の如く厳めしい。堡塁も城壁も環濠も、敵を威圧させる旗が靡いているわけでもないが、まるで要塞の如く戦に縁のない庶民を寄せ付けない雰囲気がある。均等に切り出された花崗岩を積み上げ、瀝青で支えた巨大な円蓋状の建物で、救済機構の寺院ならば必ずあるべき篝火台がない。代わりに水際立つのは巨大な煙突だ。星空を支えるように真っ直ぐに伸び、濛々と吐き出した黒煙を夜に溶かしている。入口の他に出入りできそうなところはなく、一見して窓すら見当たらない。近寄って見れば、他の寺院同様に名を冠する聖人の聖像聖画が彫り込まれているが花崗岩の模様のために分かりづらい。親しみやすさなどまったく必要としていないらしい。
「大きいですわね」レモニカは家が世界ではないことを知った幼児のように嘆息をつく。「いったいどれほどの年月をかければこれほどのものが造られるというのでしょう」
「これでも聖火の伽藍ほどではないけどね」と言って、エーミはさらにレモニカの手を引く。
入口は開かれていて、ジンテラの市民が気軽に出入りしている。レモニカとエーミは市民に紛れて、聖ラムゼリカ焚書寺院へと入った。もしくは境内に入るとも言える。中には半球状の空間が広がり、巨大な煙突を支える施設を中心に、また一つの街とも言える区画が出来ていた。
真っ直ぐに伸びた道があり、篝火に照らされた広場があり、人々が思い思いに憩っている。中には酔っぱらって倒れ込んでいる者までいた。
「わたくしの知っている救済機構の寺院とは趣が、かけ離れてますわね」
「そうだね。何せそこら中に焚書官がうろついているし、かといって割と融通の利く僧侶たちだから治安が良いんだよ。以前は屋台なんかもあったんだけど、さすがに上層部に苦言を呈されたらしくて物売りは禁止になったみたい。こっちだよ」
エーミに手を引かれ、向かうのは中心に聳える煙突の塔。その名の通り、第三聖女ラムゼリカの功績を讃えている寺院ゆえに、鉄仮面をつけた聖女ラムゼリカの聖像を何体も見かける。どれも必ず剣を持っているが、その格好は彫刻家の想念に任せたらしく、時に不義を正すべく雄々しく叫び、時に悪辣なる教敵を静かに見据えている。
寺院内部の僧房や鐘楼台の間を通り抜けるように進み、煉瓦の弧橋を越える。橋というのは床に穿たれた深い溝を渡る物で、どうやら元々高地に存在した天然の断崖なのだと分かる。どうして覆わないのかはレモニカにも分からない。その辺りから、人々の喧騒が届かなくなる。
「先ほどまで角を曲がる度に現れた焚書官たちが姿を消しましたわね」とレモニカは辺りを眺め渡しながら言った。
「そういう道を通ってるからね」とエーミはあっけらかんと言う。
確かにエーミは時折、止まって、何かをやり過ごしている。レモニカにも見えないその角の向こうに焚書官がいるのだ。
そしてもう一度、橋を渡る。やはり大きな割れ目があり、レモニカは目も眩むような高さに足が痺れる。
レモニカは怪しんでいる風に聞こえないように尋ねる。「ずいぶん正確に巡回の順路を把握なさっているのね?」
「まあね。褒めていいよ。ただ単にずっと前から侵入するための準備をこつこつやってきただけだけどね」
「つまり『深遠の霊杖』を手に入れるために? だとすればエーミも――」と言いかけたところでエーミが飛び退くように後ずさり、祈りの言葉を彫り刻んだ古い柱の陰に二人で身を隠す。
エーミと共に柱の向こうを覗く。ずっと見えてはいたが、改めて見上げる。そこには特に大きな円筒状の建物、天井を支えるように伸びる煙突の塔が聳えている。それはまさにこの聖ラムゼリカ焚書寺院の中心にあり、最も重要な施設であることが、その表面に遍く施された細密な彫刻から見て取れる。煙突の周りは深く掘り下げられており、その唯一の入り口まではやはり橋が架かっている。そして、その橋の伸びる先にある荘厳な門の固く閉ざされた二面の青銅鋳造の門扉の前で、十数人の焚書官が守りを固めていた。
「思ったより多いね」とエーミは楽観的な声色で言う。
「まさか、あそこを通り抜ける手立てがあるのですか?」
「まさか。そんなのないよ。こっち来て。あ、こっちか。どっちでもいいか」
レモニカとエーミは煙突の塔を囲む堀を回り込むようにして、焚書官の衛兵たちがいた場所から反対側へ向かう。
その際にレモニカは煙突を囲む深淵を覗き込んだ。深いが、底は見える。何か沢山の物がごみごみと積み上げられている。
「あれ、何だと思う?」とエーミはどこか楽しそうにレモニカに問いかける。
「何でしょう? ここからではよく分かりませんわね。ああ、ですが大きな物は判別がつきますわ。鐘がありますわね。それに、あれは帆船? 馬車。銅像。鯨の骨。えーと、箪笥に、丸太。門扉もあります。何かと問われれば、ありとあらゆる物、でしょうか」
「まあ、少しだけ正解。あれはね。魔導書候補だよ」
「魔導書!?」と思わず声を上げてしまい、レモニカは縮こまる。「あれが全てですか? そんな馬鹿なことが」
「候補だってば。強力な魔法道具には違いないけど。まだ魔導書かどうか分からない」エーミが深淵の中心を指さす。「この煙突の底に炉があるわけだけど、その中に焚書機関の設立時に当時の聖女の数か月にも及ぶ大儀式で生み出された最も古く最も強力な魔術、『浄滅の劫火』が燃え盛り、渦巻いてる。そこに魔導書候補を放り込む」
レモニカは魔導書の疑いを晴らす方法を思い出す。
そして頷いて言う。「そして焼け残ったものが魔導書というわけですね」
「違います」とエーミは否定する。「劫火の中で焼け残っても魔導書候補は魔導書候補。それ以上の魔術があれば破壊できるかもしれない」
『浄滅の劫火』とやらを随分仰々しく言うものだから魔導書を除けばそれ以上はないのだろう、とレモニカは考えてしまった。
「そのような魔術があるのですか?」
「それも分からない。さらに言えば、そもそも魔導書が絶対に破壊されないって話が本当かどうかなんて分からない」
「そんな……。そんなことを言ってしまうと、根本的に……」
レモニカの頭ももつれてくる。
「そうだよ。本当に絶対に壊れない物品、魔導書があったとしても、それが絶対に壊れないかどうか調べる方法なんてない。魔導書以外を絶対に破壊する魔法でもあれば良いんだけど、その魔法が本当に……となる。底なし沼の証明だね」
魔導書の疑いを晴らす方法はあっても真の意味で魔導書だと信じる方法は存在しないというわけだ。
「そうなると魔導書なる存在は……」とレモニカは言い淀むが、
「存在しないかもね」と、エーミははっきり言う。「そもそも誰が最初に言い出したんだか。とんでもなく強力で? 絶対に壊れない? いかにも夢物語だよ。まあ、でも不老不死や蘇生や転生の実践、宇宙、深海、深奥への到達。最大最強の魔法の発明。目標は大きくて沢山あった方が良いとは思う」
「そういえば、ということは、あの魔導書候補の中に目当ての物が?」
「ううん。違う」エーミはぶんぶんと首を横に振る。「候補の中にも有力な候補とそうでない物があるからね。シグニカでいえば旧王国の国宝がそれに当たる。そういう物は特別扱いされて大事にしまわれてる」
そして巨大な煙突を囲む巨大な穴の外周を回り込み、唯一の橋のほぼ反対側へ到達する。
「あそこの窓から侵入する」と言ってエーミが塔にいくつもある窓の一つを指さす。「ここから先で見つかったらケブシュテラの安全は保証できないからね」
「多少は丁重に扱われているものと思っていたのですが。エーミさまは大丈夫なのですか?」
「エーミは護女だから、その場ですぐに殺されることはないよ。少なくとも聖女アルメノンの沙汰が下るまではね。どうする? 戻る?」
「戻りませんわ」と再び断言する。「でも、一応、もしも捕まったならどうなるのかお聞かせくださいますか?」
「それは正直よく分からないよ。だってケブシュテラがどうして連れて来られたのか知らないし。安全を保証できないのも同じ理由。もしかしたら反省文一枚で済むかもしれないけど、もしかしたら十枚でも済まないかもしれない。そしたらどうする?」
エーミの表情から反省文が大嫌いであることは伝わった。
「わたくし、反省文は嫌いじゃありませんわ」
エーミが化け物を見るような目でレモニカを見た。
「エーミとは気が合わなそうだね。別の意味でノンネットとも気が合わなそうだね」
連れて来られた理由を護女達は知らない。そもそもはただ単に魔法少女と間違えられて、だ。チェスタは呪いにも興味を持ったようだが、彼らの判断がどう転ぶか分からない。場合によっては呪いを調べるために人体実験されるかもしれない、と想像してレモニカは震える。もしくは反省文を千枚書かされるかもしれない、と想像してレモニカは懐かしさを覚える。
「エーミは他の護女の皆さんと違って、救済機構の闇をもよくご存じのようですね」
「優秀だからね」
エーミにはぐらかされるも、レモニカは食い下がりはせず話を進める「とにかく早く魔導書の元へ参りましょう。そしてその力を使うのです、よね?」
「その通り。全ては救済機構、そしてジンテラからの脱出のために。行くよ。えっと、どの窓だっけ?」
レモニカは指さす。「あれだと仰ってましたわ」
何度目かの飛行。エーミにつかまって飛ぶさまはユカリにつかまって飛ぶ時に似ているが、ずっと丁寧だ。ユカリ自身も何度か愚痴っていたことをレモニカは思い出す。ユカリのそれは、グリュエーのそれは、飛ぶというよりも吹き飛ばされるに近い。
誰かに見咎められはしないのかと不安になったがその心配は不要だった。二人は弧を描いて空中を行き、煙突の塔の窓の一つにするりと滑り込む。
そこは武器庫のようだった。焚書官がいつも佩いている黒塗りの鞘だけではなく、長物や戦斧、短剣や鎚矛などもある。
「寺院にしては物騒な部屋ですわね」とレモニカはぽつりと呟く。
「焚書機関の僧侶は九割が僧兵だからね。練兵場もあるよ。この建物じゃないけど」
「そもそも救済機構の僧侶は僧兵ばかりという印象ですわ」
「そんなことないよ。国外まで含めると全体の一割にも満たないんじゃないかな。確かにその数の少なさにしては発言力が大きいけど」
二人は武器庫を忍び出で、やはりエーミの先導で煙突の塔を進む。中心の煙突を囲むようにして部屋や通路があり、趣としてはここもやはり寺院のようだった。信仰の違うレモニカにも静謐さや荘厳さ、神聖さを想起できる美術や工芸、造りがあった。絵画や彫刻ばかりではなく、椅子や絨毯ばかりではなく、柱や梁ばかりではない。武闘派としか思えない焚書機関もまた救済機構の信仰を担い、支える一部門という自負があるのだと分かる。
二人の行く先は地下だが、その途上でエーミが再びレモニカを制止する。
「戻って戻って。おっと、あっちからも来た。ここ入るよ」
通路から煙突側の部屋へ入る。そこには真っ赤な壁、ではなく煙突の内部を覗ける硝子の壁があった。かの魔術、『浄滅の劫火』の暴力的な光だけで部屋の隅々まで照らされている。部屋の中心には年季の入った黒檀の、水かきのついた掌を広げたような歪な机と五脚の椅子がある他は特に装飾も家具もない小ざっぱりした空間だ。ただ単に劫火の様子を見るだけのための部屋なのかもしれない。
エーミが避けた人々の気配が左右方向から近づいていくる。
「もしかしたらここに入って来るかもしれませんよ」とレモニカは囁く。
「うん。エーミもそれ考えてたところ。どこか隠れる場所は」
「エーミ。あそこ」
レモニカが指さした先、天井と壁の境には人が寝転がれるだけの溝がある。しかし、少しでも上に目線を向ければ丸見えで、とても隠れているとは言い難い。しかし他に方法はなかった。二人はエーミの魔法で飛び上がり、壁と天井の隙間へと潜り込み、その不運の到来に備えて沈黙を守る。
かくして不運はせせら笑いながらやって来た。部屋の中に入って来た五人の内、一人を除いた四人は焚書官らしく各々鉄仮面をつけている。そしてその全員が燃え上がる角獣を象った鉄仮面だった。