(※R指定-18)
──印は、空を穿つ。
その国の中心には、ひとつの城があった。
赤い瓦を重ねた、静謐なる高台。
その奥、誰も近づけぬ高台の縁に、ひとりの“皇帝”が立っていた。
陰陽を操る最高位の術師にして、この国を統べる唯一無二の存在。
人々は敬意を込めて、こう呼んだ。
──“陛下”ではない。“あのお方”と。
玉座は持たなかった。
ただ――
深紅の帳と、金襴の襖に包まれた静謐の御殿にて、彼はひとり、気配を閉ざし佇んでいた。
その部屋はすべて吹き抜けており、壁というものは存在しない。
天と地を隔てるものはなく、遠く霞む山並みの向こうには、朝の光がゆるやかに昇り、
あるいは夜には、銀の月が静かにその輪郭を覗かせていた。
揺れる蝋燭の灯が、金細工の飾りに淡く反射し、
朱と金が交錯する空間は、まるで神意を宿す聖域のように、ただただ静かに呼吸している。
ある日、広間の舞台の縁で、彼は静かに両手を組んでいた。
指が交わるたび、音のない力が空を駆ける。
それは印。
命と引き換えに、この国を守るための、幾重にも重ねられた術式。
「……」
彼が口を開けば、鈴を転がしたような透き通った声が響く。
それは民の耳に届かない。
けれど、空の色がわずかに変わった。
遠く、数十万の兵が、息を止めて頭を垂れる。
誰もが知っている。
この国に平和があるのは、“あのお方”がいるからだ。
彼が怒れば、大地は割れ、空は裂ける。
彼が微笑めば、春が来る。
過去に一度だけ、この国は滅びかけた事があった。
他国の侵略。
四方を囲まれた夜。
黒煙が天を覆い、火の手が、村を、家を、人を、静かに呑んでゆく。
軒を蹴られ、瓦礫に潰された母が、血の滲む指先で子を探していた。
だが、声は届かない。耳に響くのは、喉を裂くような悲鳴と、焼け落ちる柱の音ばかり。
敵国の兵たちは、笑っていた。
命乞いは、まるで虫の鳴き声のように踏みつけられ、
刃が、何の躊躇もなく振るわれる。
老いた者は打ち据えられ、逃げ遅れた娘は髪を掴まれ、炎の中へ突き落とされた。
焦げた油が弾けるように、命が砕ける音がする。
倒れた者の上に、また別の身体が重なり、
誰の腕か、誰の脚かも分からぬまま、熱と血にまみれて崩れていく。
空は、赤と黒の間にある色で濁り、
神は倒れ、祈りは燃え、
もう誰も、空を仰がなかった。
……誰もが諦めていたそのとき
まるで、風が呼吸をやめたかのように。
世界が、ふと、静かになった。
炎が揺れなくなり、
声が遠ざかる。
空気の色が変わる。
誰かがその気配に気づいたとき、
高台へと民の目線が移る。
高台に現れたその陰は
たしかに、神でも鬼でもなく、“人”だった。
けれど、纏う衣は
そのどちらよりも、尊く、美しかった。
赤。
心の奥に灯る焔のような、深く澄んだ紅。
そして金。
言葉では表せぬほど柔らかく、静かに煌めく光。
裾には、かすかに古の詩が縫い込まれていた。
誰も読むことはできない。
周囲の空気が、ひとつ、震えた。
誰かが声を上げようとした。けれど、喉が動かない。
彼が、手を上げた。
ゆっくりと、五指が交差する。
結ばれるのは、ただの印ではない。
それは“言葉にならない和歌”。
術式。
空間が、ひとつ、ひずんだ。
その瞬間、彼の周囲に――
無数の赤い文字列が現れる。
まるで空間そのものが染み出すように、赤い光の軌跡が宙に浮かんでいく。
円を描き、螺旋を組み、彼を中心にして“結界”のように拡がる。
誰にも読めない、特殊な文。
そして、彼は声にして詠う
「まかふしぎ ことのはゆらぎ しるしなき
たばかるものは あまつみちひく」
「うつつにも うたかたなれや たがねがひ
あやつはひとの こころにすむや」
言葉が終わると、空がひとつ、深く息を吐くように沈んだ。
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コメント
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これほど文才ある方がもとぱ好きなのマジで神様の奇跡すぎて拝める(?)
使っている言葉が凄いですね… ふいに文に引き寄せられるような魅力があって、続きがすごく気になる物語です、。 文章から感じる神秘的ななにかがとても好きです! 文章から、今の状況やその方々の心境が伝わる感じることがなんだか感動です… とても素敵な作品見れて良かったです
もうほんとに神様ですよね、、