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翌日。
ライブ当日の朝、目覚ましより先に目が覚めた。
空は曇り、カーテン越しの光は濁った水の底みたいに鈍く重かった。
それでも体は、まるで習慣に突き動かされるように動いた。
歯を磨き、シャワーを浴び、髪を乾かす――いつも通りの手順。
何も、感じないまま。
昼過ぎ、圭史の運転する車で会場入りすると、バックステージにはスタッフたちが慌ただしく行き交い、モニターの音と機材のチェック音が交錯していた。
けれどその喧騒さえも、どこか遠くの世界の音のように感じられる。
俺はただ、ステージ袖に立ち尽くしていた。
今日は対バン形式で、俺らがトリ。
機材も貸しているから、他バンドのメンバーたちが挨拶にやってくる。
感じが悪くならない程度に、最低限のやりとりだけ返す。
それ以上、踏み込む余裕なんてなかった。
楽屋のドアが開き、若井と涼ちゃんが入ってくる。
手にはそれぞれ、水のボトル。
俺はソファの縁に腰を下ろし、黙ってタバコを一本くわえた。
火をつけ、肺に煙を満たしてから、ぽつりと呟く。
「……行くか。」
立ち上がり、二人を両腕で抱き寄せた。
この瞬間だけは、どれだけ年月が経っても変わらない。
俺たち三人で始めた音楽の、唯一の“儀式”。
若井の肩越しに、涼ちゃんの息がかすかに触れる。
その感覚だけで、自分が“生きている”と確かめられた。
唇の裏側で、舌のピアスがカチャリと鳴った。
それは合図であり、現実に繋ぎ止める最後の“音”でもあった。
「今日も、ちゃんとやる。ぶっ壊してやる。全部。」
短く言い放ち、ステージへと歩き出す。
照明の熱、観客の歓声。
鼓膜の奥で鳴る低音が、心臓と同じリズムで跳ねる。
スポットライトの光が目を焼くたび、世界が白く塗りつぶされていく。
けれど、その中心に立っていたのは――空っぽの俺だった。
喉が震え、声が出る。
音は、きれいに伸びていく。
体が覚えている。
どれだけ壊れても、音だけは裏切らない。
それが唯一の救いであり、同時に呪いだった。
ふと、あの夜の彼女の顔が浮かんだ。
車内で泣きじゃくっていた、あの震えた目。
胸の奥が、また少しだけ焼けついた。
それでも、喉は音を拾い続ける。
手は止まらず、曲は流れ続けた。
――ちゃんと出てる。声も、音も。なのに、どうしてだろう。
何も、響かない。
演奏が終わり、歓声が押し寄せる。
客席の笑顔、拍手、揺れるライト。
どれも、夢みたいに遠かった。
袖に戻ると、スタッフたちが口々に言う。
「お疲れ様です」「最高でした」
その声たちが、全部他人に向けられてるように聞こえた。
若井と涼ちゃんが息を整えながら笑う。
「いいライブだったな」
「うん、最高に」
俺も、小さく笑って頷く。
――そう見えていたのなら、それでいい。
煙草の煙が、ゆるやかに漂う。
汗の匂いと混ざり合って、心を遠ざける。
そこへ、女たちが楽屋に入ってきた。
笑い声と香水の匂い。
その喧騒を見て、胸の奥がささくれだったように痛んだ。
「……帰れ。」
低く、乾いた声で言う。
顔も見ずに、煙草の灰を落とした。
女たちが、驚いたように立ち上がる。
若井と涼ちゃんがすぐに察して、笑顔を作る。
「悪い、今から打ち合わせ入るから」
「ごめんね、また今度!」
気まずさを包むような軽い声に、女たちは笑いながらドアの向こうへと消えていった。
残された三人の間に、沈黙が落ちる。
煙の向こうで、若井が小さく息をついた。
「……ごめん。ありがとう。」
「いや、いいよ」
「気にすんな」
二人の声が、やさしかった。
だからこそ、余計に苦しかった。
「俺、帰るわ。打ち上げ、パス。」
立ち上がりながら言う。
「音楽は……やめないから。」
それだけ言って、ドアノブに手をかけた。
振り返らずに、そのまま出ていく。
照明の落ちた廊下を、ひとりで歩く。
胸の奥で、まだ舌のピアスが小さく鳴っていた。
それはまるで、自分の中に確かに残っている“残響”を確かめるような音だった。
俺は、抜け殻のような時間を生きていた。
音楽は、やめない。
2週間ほど前、若井と涼ちゃんにそう誓った通り、酒も女も断ちただひたすらに音と向き合う毎日。
11月の第2週。
朝晩の冷え込みが、ひときわ強くなってきた。
寒さで目が覚めることが増えた。毛布に包まりながら、「冬が来る」と思う。
だけど俺の中では、季節よりも先に、心の奥がずっと冷えていた。
今週の土曜に控えたワンマンライブは、俺たちのキャリアで最大規模となる。
キャパ1300人の巨大な箱。
3〜4ヶ月前から決まっていた話だが、
今の俺には、それが“試されている”ようにしか思えなかった。
音楽で真面目に生きていくしか、もう道はない。
そう言い聞かせてはいたが――
夜、静まり返った部屋でギターを抱いても、浮かんでくるのはメロディじゃない。
車内で泣きじゃくっていた彼女の姿、
震えながら告げた「さようなら」。
日に日に、心の空洞は音楽では埋められないほど大きく、深くなっていく。
その穴は、ただ一つの名前を叫んでいた。
――るか。
会いたい。
その衝動が、身体を内側から焼き尽くしていく。
でも、彼女は最後に「さようなら」と言って去った。
その事実が、鉛のように重くのしかかる。
今さら、何を言っても――もう、赦されないのだろう。
ワンマンライブ前日、金曜日。
がらんとした巨大なライブハウスのステージで、俺たちは最終確認のリハーサルをしていた。
数曲の音出しと、PAとの綿密なチェック。
すべての音が、完璧な形で仕上がっていく。
16時頃。
「OK! じゃあ、今日はここまで! 明日、最高のステージにしようぜ!」
若井の声で解散となり、涼ちゃんやスタッフたちが「お疲れ様でしたー!」と楽屋へ戻っていく。
その背中を見送りながら、俺はひとり、客のいないだだっ広いフロアを見下ろした。
明日、ここが満員の観客で埋まる。
最高の音を届ける。
――この、空っぽの心のままで?
気づけば、俺は圭史に「先に帰る」とだけ告げて、機材車ではなく、自分の車に乗り込んでいた。
行き先も決めず、渋谷の街を抜け、首都高を走る。
流れていく東京の夜景が、滲んで、歪んで見えた。
この気持ちは、なんなんだ。
愛なのか。
ただの恋なのか。
それとも、手に入らないものに執着しているだけなのか。
自分でも、もうわからない。
だったら、もう終いだ。
今日、もし会えなかったら。
この狂いそうな気持ちも、あの夜の記憶も、ぜんぶ燃やす。
彼女を想う自分ごと、消してしまおう。
それくらいの覚悟がないと、彼女に顔向けはできない。
言い訳がましくて、未練たらしい。
――彼女のことを壊そうとして、壊されたのは自分だった。
自分にそう言い訳をつけた瞬間、アクセルを踏み込んでいた。
向かう先は一つ。
あの日、再会した東京駅付近のオフィス街。
金曜の夜。
仕事を終えた人々、まだ追われている人々が足早に街へ吸い込まれていく。
俺は、前回と同じように彼女が働くビルの出入り口が見えるコインパーキングに車を停め、エンジンを切った。
車内は無音だった。
ラジオも、音楽も流さず。
ただ、心臓の鼓動だけが、うるさいくらいに響いていた。