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side luka
最後に彼と会ってから、もうすぐ一ヶ月が経とうとしている。
季節はすっかり11月。
朝、目覚めて窓の外を見たとき、そろそろ冬物のコートを出さなきゃと思った。
そんなことを考えながら、いつも通り会社へ向かう。
あの日を境に、ライブハウスには一度も足を運んでいない。
彼の歌も、抱かれたあの夜以来、ずっと聴けないまま。
他のバンドの曲を流してみても、なぜかすぐ止めてしまう。
“音楽”という存在だけが、ぽっかりと日常から抜け落ちてしまったようだった。
今日は金曜日。11月の第2週。
仕事の合間、ふとカレンダーを見たときに気づいた。
――明日は、彼らのワンマンライブだ。
最大キャパでの単独公演。
昔からのファンなら、みんなその日を待っていたはず。
心の奥が、ちくりと痛んだ。
消そうと思ったXのアカウントは、ログアウトしたまま。
趣味で始めたアカウントだったのに、気づけば彼にもフォローされていて。
ライブの感想、セトリのメモ、新曲の感想――全部がそこに残ってる。
…消せるわけがなかった。
――時間が解決してくれる。
そう言い聞かせてきた。
でも、本当はずっと願っている。
もう一度、彼の歌う姿が見たい。
それが叶わない夢だとしても。
書類の山を前に、小さく息を吐く。
せっかくの週末だ。早く片付けて、さっさと帰ろう。
心の奥に、小さな火種を抱えたまま。
私は今日も、いつも通りの顔で仕事に向き合う。
17時を少し過ぎたころ、仕事を終えてビルを出た。
時計の針は17時15分を指している。
空はもう薄暗く、街灯がぽつぽつと灯りはじめていた。
薄手のコートじゃ、やっぱり少し寒い。
肩をすくめながら、駅までの道を急ぐ。
せっかくの金曜日だし、今日は美味しいものでも作って食べよう――
そんなことを考えていた、そのとき。
ふいに、背中越しに「トン」と肩を叩かれた。
会社の人かな、と思いながら振り返る。
けれどそこにいたのは、見慣れた顔。
いや、もう見慣れてはいけないはずの人だった。
黒く染めた髪。
あのときより少し痩せた頬。
そして――
獰猛だったはずの瞳は、いまはどこかに縋りつくような光を帯びていた。
一瞬、息が止まる。
その姿は、触れたら壊れてしまいそうなくらい儚かった。
前みたいに、言葉は出なかった。
私たちのまわりだけ、時間が止まったみたいに感じた。
街のざわめきも、車の音も、遠くへ消えていく。
彼が、ゆっくりと口を開く。
「……ねぇ、逃げないで。お願いだから。
最後でもいいから、ちゃんと、話したい。
――るかちゃん。」
その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけていくのが分かった。
怖いのに、懐かしい。
逃げなきゃと思うのに、足が動かない。
冬の風が吹き抜けて、コートの裾が揺れた。
それでも、私はただ、彼を見つめ返すことしかできなかった。
話すべきじゃないって、わかってる。
話すことなんて何もないって、突き返すべき。
きっとまた、一緒にいたら――傷つけあってしまうって。
わかってるのに。
それでも。
いま目の前にいる彼を見たら、もう拒むことなんてできなかった。
黒い髪も、ぎりぎりのところで踏みとどまっているような瞳も。
どこか、今にも壊れてしまいそうで。
その不安定さが、逆にとても“まっすぐ”に見えた。
視線が絡む。
私は、ほんの少しだけ――頷いた。
「……きて」
いつもなら、手首を掴まれてぐいっと引っ張られていた。
問答無用で腕を引かれ、引き寄せられていた。
でも今日は、違った。
彼はただ隣に立ち、私の歩幅に合わせるように静かに歩き出した。
まるで、これ以上傷つけないように、そっと息を潜めるみたいに。
黒い車の前で立ち止まると、彼が無言で助手席のドアを開けた。
一瞬だけ、視線がぶつかる。
何も言わないまま。
乗ってしまったら、もう戻れない――。
わかっているのに、私はそのドアの内側へ、吸い込まれるように身を沈めた。
ドアが静かに閉まる音が、世界のすべてから切り離される合図みたいに響いた。
冷たい革のシート。
隣から漂う、微かに甘い煙草と香水の匂い。
すべてが、あの夜とは違うのに。
胸の奥だけは、何も変わらずあのままだった。
言葉を交わさないまま、車は静かに滑り出す。
もう、この選択からは――きっと逃げられない。
side mtk
どこで、どんな話をしようなんて、決めていなかった。
ただ、彼女の隣にいることしか頭になかった。
無意識にハンドルを握り、闇雲に車を走らせる。
赤信号で車が止まる。
ちらりと横を見れば、彼女は真っ直ぐ前だけを見ている。
その横顔に、喉が焼けるように熱くなる。
「……ねえ」
思わず声が漏れる。
彼女がゆっくりとこちらを見た。
視線が絡んだ瞬間、逃げられなくなる。
「俺、るかちゃんのこと……ぶっ壊そうとした」
苦笑いみたいな、壊れた笑みが漏れる。
ハンドルを握る手に、無意識に力が入る。
「でも……ぶっ壊されたのは、俺だった」
その言葉が胸に突き刺さり、じわりと疼いた。
自分でも気づかなかった傷口を、彼女に抉られたことをようやく自覚する。