テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#ハッピーエンド
#婚約破棄
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
あの日
断崖の上で蒼様の古傷に触れてから
私たちの間には、形のない不思議な空気が流れるようになっていた。
蒼様は相変わらず不愛想で、視線が合えばすぐに
「……なんだ」と眉を寄せるけれど
その態度の端々に、説明のつかない温もりが混じり始めている。
私が台所に立って、包丁でトントンと小気味よい音を立てていると
いつの間にか背後に大きな気配を感じる。
振り返れば、蒼様が手持ち無沙汰そうに柱に寄りかかり
私の手元をじっと、まるで尊い儀式でも眺めるような真剣な目で見守っていたりした。
それに、私が摘んできた名もなき野花。
土の付いた手で適当な瓶に放り込んでおいたそれが
次の瞬間に見ると、水を変えられ、日当たりのいい場所に凛と生け直されていることもある。
彼は何も言わない。
けれど、その沈黙はもう、私を突き放すためのものではなくなっていた。
そんなある日の夕暮れ時のことだ。
一日の家事を終えた私は、社の縁側に腰を下ろし
蒼様と二人並んで沈みゆく夕日を眺めていた。
空は燃えるような茜色に染まり、山の稜線が黒い影となって浮かび上がる。
あまりに静かで、贅沢な時間。
「……あれ?」
ふと、自分の右手の小指に、奇妙な違和感を覚えた。むず痒いような、熱いような。
何気なく目を落とした瞬間、私は息を呑んだ。
私の小指の付け根に、細く、透き通るような「赤い糸」が結ばれていたのだ。
それはただの糸ではなかった。
夕陽の光を反射して、まるで血管のように脈打ち
生き物のように淡く拍動している。
糸の先は、空中を泳ぐようにして隣へと伸びていた。
「蒼様、見てください! 私の指に、変な糸が……!」
驚いて隣を振り向いた私は、そのまま言葉を失った。
蒼様の左手の小指からも、全く同じ光の糸が伸びていたからだ。
その糸は、二人の間の空間で幾重にも複雑に絡み合い、もつれ合いながら、まっすぐに私の小指へと繋がっている。
「……これ、蒼様にも見えますか?」
問いかける私の声は震えていた。
蒼様は、自分の指先に結ばれた糸を
まるで忌まわしい呪いでも見るかのように忌々しげに見つめていた。
けれど、その瞳は次第に、信じられないものを見た時のような驚愕へと塗り替えられていく。
私を凝視するその端正な顔が、かつてないほど激しく、動揺に揺れていた。
「……番、だと?」
地を這うような、低い、掠れた声。
けれどそこには、熱に浮かされたような深い情念が孕んでいた。
「え?つがい……?!それって、夫婦のような意味……ですよね?」
「……龍神にとっての番は、単なる伴侶ではない。魂の半身だ。種族も、寿命も、この世界の理さえも超えて惹かれ合い、魂の深淵で結びつく唯一無二の存在……」
「な、なんだかロマンティックですね…」
「だが、なぜだ?なぜ、お前のような、弱くて脆い小娘が……俺の番だというのだ」
「わ、私だって分かりませんよ…!龍神様の番になるとかワケがわからないです…!」
蒼様は、まるで抗えない力に導かれるようにして、私の手を取った。
大きな掌に包み込まれ、彼がその赤い糸をなぞる。
「…くそ……これが何よりの証拠か。どうやら、この糸がお前と俺を運命の番だと示しているのは間違いないようだ」
彼の指が私の肌に触れるたび、糸はカッと火が灯ったように熱を帯びた。
ドクン、ドクンと、重なる心臓の鼓動が耳の奥まで、痛いほど響いてくる。
「村では『不吉な厄災』だと疎まれて生きてきた私に、そんな大役を示されても……私、龍神様の隣にいてもいいような人間じゃ…」
胸を締め付けるような歓喜と、それ以上に深い不安が込み上げる。最強の龍神の隣。
そこは、私のような捨てられた生贄がいていい場所なのだろうか。
私の卑屈な言葉を遮るように、蒼様は握った手に力を込め、強引に私を自分の方へと引き寄せた。
「……運命というのは、どこまでも残酷だな。俺はあの日、二度と人間など愛さない、信じないと、この逆鱗に誓ったはずだった」
「だが、この糸は……魂の叫びは、嘘をつかない」
至近距離で見つめ合う。
鼻先が触れそうなほど近い距離で、蒼様の深緑の瞳の中に
困惑をすべて飲み込んでしまうほどの、暗く深い情愛が灯るのを私は見た。
彼は空いた方の手で、私が肌身離さず握りしめていた、あの「御守り」にそっと触れる。
「小春よ、龍神の番になるということは、もはやただの人間には戻れぬということだ」
「この糸が有る限り、いつか人であることを捨て、この孤独な山で俺と共に、永遠にも等しい時を生きねばならぬ時が来るかもしれんな。それでもお前は逃げぬのか?」
その問いに、迷いはなかった。
村で死を待つだけだった私に、名前を呼び
食事を分け、居場所をくれたのは、目の前のこのお方だけだ。
「……蒼様。私……今は貴方の元にしか居場所がないんです。この糸が切れて、あなたがいなくなってしまう方が、死ぬよりずっと怖いですよ…」
震える声で、けれど真っ直ぐに答えると、蒼様は観念したように短く、切なげに笑った。
そして、私の額に自分の額をこつん、と優しくぶつけた。
それは、どんな誓いの言葉よりも重く
深い「魂の契約」の儀式のように感じられた。
けれど、この甘く静かな沈黙を切り裂くように、山の麓から不吉な鐘の音が鳴り響いた。