悪夢
大波が船端を叩き、人や物が暗黒の海に次々と投げ出されて行く。
水夫達が駆け回り、帆を降ろそうと奔走している。
帆柱を倒せ転覆するぞ!と、誰かが叫んだ。
その瞬間横風を受けて船が大きく傾き、胴の間に積まれた荷は全て海に消えて行った。軽くなった船は激流に流される木の葉のように波に翻弄された。大きな鋸のこを手にした水夫達が、必死の形相で帆柱を切り倒そうとしている。
志麻は船の轆轤ろくろにしがみつき、船から振り落とされないように必死で波と風に耐えていた。
倒れるぞ!水夫が大声を上げた。帆柱が悲鳴を上げてゆっくりと傾いて行く。途端に突風が吹き、根本から引きちぎられるように折れた帆柱は、紙のように飛ばされ海に落ちて流れて行った。
安定を取り戻した船は、それでも波の頂と谷の間を高速で上下し黒雲と水の壁が交互に目の前に立ちはだかった。
と、艫板の上で二人の侍が斬り結んでいるのが見えた。
一人の顔に見覚えがある。
一刀斎!我知らず叫んでいた。
志麻の声は風波に消されて届かない。
たとえ聞こえたとしても目の前の相手から目を離す訳には行かないだろう。
それほど一刀斎は劣勢に立たされていた。
ジリジリと一刀斎が後退る。
相手の侍は勝ち誇ったように剣を上段に構えて一刀斎に迫った。
一刀斎の後足が船縁に掛かる。もう後が無い。
侍は上段から剣を振り下ろす。
一刀斎は剣を水平に構えて躰ごとぶつかっていった。
侍はそれを読んでいたように、サッと身を躱す。
一刀斎がタタラを踏んだ。
その瞬間、侍の剣が閃き一刀の元に一刀斎を斬り伏せた。
志麻は息を呑む。
さらに倒れる一刀斎の躰を侍が下から斬り上げると、一刀斎は仰向けに倒れて胴の間に落ちて行った。
一刀斎!!!!!
悲鳴に近い声で志麻は叫ぶ。
船底に倒れた一刀斎に駆け寄ろうとした時、再び大波が押し寄せ一刀斎の躰を呑み込んで行った。
後には濡れた底板が鈍く光っているだけだった。
呆然と立ち竦む志麻の目の前に、いつの間にか侍が立っていた。
反射的に志麻は鬼神丸に手をやった。しかし鬼神丸の鯉口が錆びついたように動かない。
鬼神丸どうしたの!
・・・志麻・・・志麻、この相手には敵わない・・・
鬼神丸お願い抜けて!
志麻は必死で懇願した。
目の前の侍の顔が醜く歪む。
剣が煌めいて志麻の頭上に落ちてきた・・・
志麻ちゃん・・・志麻ちゃん・・・
瞼の内側が淡い光に包まれている。
重い瞼をゆっくり開けると、お紺の顔がそこにあった。
「どうしたの志麻ちゃん、うなされてたわよ?」
朝の光が障子を通して部屋の中に差し込んでいた。
「お紺さん!」
志麻は思わずお紺に抱きついた。
「一刀斎が、一刀斎が!」
お紺が志麻の両肩を掴む。
「一刀斎がどうしたの?」
「一刀斎が死んじゃった!」
声が涙声になっていた。
「落ち着いて志麻ちゃん、悪い夢でも見たんじゃない?」
「夢・・・」
「そう夢、ここは旅籠の二階だよ」
「あれっ・・・?」
志麻は辺りをキョロキョロと見回すとようやく落ち着きを取り戻し、我に帰った。
「どんな夢だったの?」お紺が訊いた。
志麻はさっき見た夢を細大漏らさずお紺に話した。
「安心おしよ、一刀斎がそう簡単に死ぬもんですか」
「だと良いけど・・・」
「さ、こんなところで心配してたって始まらないよ。江戸の事なんかここからじゃ知りようがないんだから、それよりも朝ごはんちゃんと食べて、今日もしっかり歩かなくちゃ」
「そうね・・・御免なさい、もう大丈夫」
志麻は浴衣の襟を整えると鬼神丸を手に取って抜いて見た。
青味がかった刀身は、そこに変わらずに輝いていた。
志麻はホッと息を吐いて刀身を鞘に戻した。
*******
「今日はいよいよ三河国に入るわね」
舞阪宿の旅籠を出ると、お紺が菅笠をちょいと上げて街道を見晴るかした。
「今日もいいお天気ね、近頃はとんと刺客も出ないから、気持ちの良い旅が出来そう」
「お紺さん、私思うんだけど・・・」
志麻が気になる事がある、といった顔でお紺を振り向いた。
「なに、まだ夢のこと気にしてんの?」
「ううん、もう気にして無い。お紺さんのいう通り、一刀斎はあんなことで死ぬ奴じゃないもの」
「だったら、何?」
「今切の関所はちょっと危険じゃないかと思って」
「今切って、船で一里ほどの渡しがある所でしょう?」
「そう、対岸の船着場に関所もあって乗客も船荷と一緒に調べられるの。お紺さん手形持っていないから避けたほうがいいかなって」
「入り鉄砲に出女って、厳しいのは箱根だけでしょ、あそこは上手く抜けられたし・・・」
「ううん、今切は幕府に取っても要害の地なの、ひょっとしたら箱根より厳しいかも知れない。船じゃ逃げ場がないもの」
志麻の表情がいつに無く真剣だ。
「う〜ん、箱根さえ抜けりゃ何とかなると思ってたのに」
「でね、遠回りになるけど浜松宿まで戻って、姫街道を通って吉田宿まで行くのはどうかなと思って・・・」
「姫街道?・・・そっちに関所は無いの?」
「気賀に関所があるけど、井伊谷川の上流まで行けば川幅が狭いから歩いて渡れる。関所を通らずに気賀宿に入れるわ」
「あんた詳しいわね?」
「初めて江戸に出る時言われたの、女旅は何かと詮議が厳しいから面倒を避けたければ今切を避けて姫街道を行く方が良いって。本当は本坂通って言うんだけど同じ目的の女旅が多いから姫街道って言うんだって・・・」
そう言われるとお紺も急に不安になってきた。腕を組んで思案顔になる。
「浜松宿に戻るって二里以上あるわよね?」
「お役人に捕まるよりマシでしょ?」
そう言われてしまってはお紺も嫌とは言えない、仕方なく同意して浜松宿まで戻る事になった。
トボトボ歩いて浜松宿に着くと、今度は追分まで北上する。だんだん山道になってお紺がそろそろ音を上げ始めた。
「ねぇ、志麻ちゃんまだ着かないの?」
「もう少し。もう少し上流に行けば渡れる程度の川幅になるから」
志麻がお紺を宥めつつ井伊谷川の岸辺を上流に向かって行くと、河原に誰か倒れているのが見えた。
「お紺さん、人が倒れている!」
「え、どこ?」
お紺に返事をする前に、志麻は駆け出していた。近寄ると大きな荷物を背負ったまま老婆が仰向けに倒れていた。
「お婆さん大丈夫!」志麻が声を掛けると老婆が薄く目を開いた。
「うう・・・」
苦しそうな呻き声だ。
「どうしたの?」
「こ、転んで腰を打ってしもうた・・・荷物が重うて起き上がる事が出来んのじゃ」
「じゃあ、まず荷物を下ろさなくちゃ」
「肩紐が肩に食い込んで抜けませんのじゃよ」
見ると肩骨と鎖骨の間にしっかり食い込んでいる。
「お婆ちゃん肩紐を切るけど、良い?」
「ああ、頼む・・・」
老婆は返事をするのも苦しそうに顔を顰めた。
志麻は脇差を抜くと背中と荷物の隙間に差し入れ、肩紐を切った。
ようやく解放された老婆は、それでも腰を強く打っているらしく立ち上がる事が出来ないでいる。ようやくお紺が追いついてきて老婆に訊いた。
「お婆ちゃんお家は?」
「気賀宿の北の外れの山の中じゃ」
「何でこんな所に?」
「気賀宿の者は、街へ出るのにいちいち関所など通らぬわい。皆この辺の川を歩いて渡っておる」
「分かった、私がおぶってってあげる」志麻が老婆に言った。
「あっちが荷物を持つよ」
お紺が荷物を担いで立ち上がる。
「すまないねぇ、あんた達旅のお人かえ?」
老婆が志麻の背におぶさりながら訊いた。
「ええ、伊勢まで行く所です」
「ははぁ、察するところあんたら抜け参りだね、関所を迂回していくつもりだろ?」
「へへ、バレちゃった?」お紺がぺろっと下を出す。
「だったら今日は私の家にお泊まり。親切にしてもらったお礼にご馳走するよ」
「いいよ、お婆ちゃん、そんなつもりじゃないから・・・」
「何言ってんだい、この辺りは女旅を狙って山賊が出るんだよ。あんたら若いから遊郭に売り飛ばされるのがオチだ」
「ええっ、本当なの!どうする志麻ちゃん?」
「確かにお婆ちゃんを送って行ってたら日が暮れちゃうわね。いくら何でも夜の山道は危険すぎる・・・ありがたくお婆ちゃんの言葉に甘えましょ」
「そうそう、それが良い、うちは息子と二人暮らしだから遠慮はいらないよ」
「お婆ちゃん、息子さんがいるの?」
「ああ、四十にもなって嫁の来手もないんだよ、良かったらどっちか貰っておくれでないかい?」
「いえいえ、遠慮しておきます、私らまだ身を固めるつもりはないんで・・・」お紺が大仰に手を振って言った。
「ははは、冗談だよ。うちの兵六玉にあんた達は勿体無いよ」
「ああよかった、びっくりさせないでよ!」お紺が老婆の背中をペチンと叩いた。
「あはは、すまないねぇ、久しぶりに若い女子を見たもんだから・・・あ、その辺から渡ろう、水の深さは膝くらいしかないからね」
志麻とお紺は一度老婆と荷物を下ろし、裾をからげて着物が濡れないようにした。
「よし、あらためて出発!」
お紺の号令で志麻は、川底の丸石で足を滑らせないように注意をしながら、ゆっくりと川を渡り始めた。
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