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岳斗が部長室を出て行ってすぐ、机へ置きっぱなしにしていたスマートフォンを手に取った大葉は、姉からの一方的なメッセージを読んで眉根を寄せた。
「車を借りるって……羽理、動けるのか……?」
そもそも愛犬キュウリのことが書かれていないのも気になるではないか。
大葉は小さく吐息を落とすと、柚子へ電話を掛けた。
***
「柚子お義姉さまは……うちの社長と縁戚なんですか……?」
先ほどからちょいちょい話に登場している〝妹さんを溺愛している伯父さん〟というのは、どうやら自社の社長・土井恵介のことらしい。
今更のようにそれに気付かされた羽理は、アワアワしながらすぐそばの柚子を見詰めた。
「んー? そうだよー? 土恵の社長は母方の伯父さんでぇーす」
「……ということは……大葉も?」
「うん、そうだねー。たいちゃんがよその子じゃない限りはそうなるねぇ♪」
わざとだろうか。いつもより間延びした口調で羽理の言葉を肯定してクスクス笑う柚子に、羽理は情報量が多すぎて処理しきれない。
「……あ、あのっ。ってことは今日大葉が社長のところへ出向くって言ってたのって……」
「多分甥っ子として、じゃないかなぁ?」
羽理は大葉がスーツをバッチリ着込んで社長室へ行くと話してくれたとき、てっきり昨日・今日と突発的に有給休暇――時間休――を頂いたことを、上司である社長へお詫びに行くんだとばかり思っていた。だが、実際は違うのかも知れない。
「もし休暇の話をしに行ったんじゃないとしたら……大葉はそんなに急いで何を話しに行ったんでしょう?」
羽理の疑問に、柚子が小さく「ああ」とつぶやいて、吐息を落とした。
「実はね、たいちゃん、伯父さんからお見合いを勧められていたの。多分その話だと思う」
ちょっぴり申し訳なさそうに眉根を寄せた柚子からそう告げられて、羽理は「えっ?」と瞳を見開いた。
(……お見、合い?)
「わ、私……大葉からそんな話、聞かされてないです」
大葉は、お見合いを打診されている状態で、羽理に求婚してきたのだろうか? だとしたら酷い! と思ってしまった。
その思いが表情に出たらしい。ほんの少し唇を尖らせて視線を下向けた羽理に、柚子が慌てて言い募る。
「あのね、羽理ちゃん! たいちゃんの性格からして話があった時点でお見合いなんて受ける気ないって伯父さんには伝えていたと思うの! けど、伯父さん、ああ見えて推しが強いから。今日はハッキリ断るために着慣れないスーツを着込んで武装して、社長室へ出向いたんじゃないかな? ――きっと、全部、ぜーんぶ羽理ちゃんと一緒にいるための行動だよ?」
そう柚子に慰められながらも、羽理は不安でたまらなくて……。手に入れたばかりの、幼少期の大葉がぎっしり詰まったミニアルバムをギュウッと握りしめずにはいられなかった。
期せずして身体に力が入ってしまったからだろう。腰の辺りが気怠く疼いて、羽理は、昨夜大葉と最後までしてしまったことを痛感させられた。
大葉が羽理一筋だと……、羽理と結婚したいと言ってくれたから、羽理は彼に身体を許したのだ。もしもそれが根底からくつがえされてしまうとしたら、自分はとんでもない過ちを犯してしまったのではないだろうか――。
「……私、私生児なんです」
気が付けば、心許なさから思わずポツンとそうこぼして、柚子に「え?」と言わせてしまっていた。
柚子からの疑問符に押されるみたいに、羽理は生まれつき父親とは無縁の、いわゆる〝非嫡出子〟として母一人子一人の母子家庭で育ったことを告白した。
「私、別にそういう家庭に生まれて不幸だったわけじゃありません。むしろ、母からは愛情を一杯注いでもらえたし、物凄く幸せでした。でも……みんなの家みたいにお父さんが居ないこと、寂しく思わなかったといえば嘘になります。だから……」
羽理は二十五歳になる今の今まで男性経験がなかったのだ。
もちろん、大葉と出会うまで、彼氏が一人もいなかったわけじゃない。学生の頃には付き合っている男性だっていた。でも、家庭を作れると確証が持てない相手とは、怖くて性行為をする気にはなれなかったのだ。
貞操観念が強過ぎると非難されてダメになってしまった元カレには、フラれてもそんなに未練を抱けなかった。
大葉と出会って分かったのだけれど、羽理は元カレのことを本気で好きではなかったのだ。でも、大葉は違う。大葉にフラれてしまうかも知れないと思ったら、それだけで胸の奥がキュゥッと締め付けられるように痛くなってしまう。
今、柚子から大葉のお見合いの話を聞いて、羽理は痛感した。自分が、大葉に全てを許してしまった本当の理由は――。
「大葉は……私をお嫁さんにしてくれるって言いました。私、それを信じたい、ん……です」
羽理は、知らず知らずのうちに大葉と家族になりたい、と心の底から希ってしまっていたのだ。そのために身体を繋げることが必要ならば、今まで頑なに守ってきたその垣根を越えても構わないと思えるほどに。
でも、信じたいと言いながら、不安でウルッと視界が水の底に滲んで、思わず声が震えてしまう。
「羽理ちゃん……。うちの弟は……無責任なことは絶対しないから。だから、お願い。泣かないで?」
柚子は要らないことを言って羽理を不安にさせてしまったことを素直に謝罪しながら、ポロポロと涙をこぼす羽理をギュウッと抱き締めてくれた。
「私、たいちゃんを信じているからこそ、持ち掛けられた見合い話を断るためにあの子、伯父さんのところへ行ったに違いないと確信しているのよ?」
柚子は、噛んで含めるようにそう語り掛けながら、羽理の背中を優しく撫でて心のざわつきを宥めようとしてくれる。
そんな時のことだった。二人の横で、鞄の中に入れたままの柚子の携帯が着信音を響かせたのは――。
***
『もしもし?』
いつもより若干姉の声音が逼迫して感じられるのは気のせいだろうか?
何となく電話口でグスグスと洟をすするような音まで聴こえた気がして、大葉は電話した用向きを一瞬忘れかけた。
そればかりか――。
『ほら、羽理ちゃん。たいちゃんから電話掛かってきたわよ? 代わる?』
「今どこ?」も、「愛犬は一緒なのか?」も問い掛けられないまま、大葉は電話口から聞こえてきた、柚子のどこか気遣わしげな声音に違和感を覚える。
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