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【後日談】其の壱
土間から規則正しい音が聞こえて最近の私の朝は始まる。早くもその状況に早くも馴染んでしまっている自分に戸惑っていた。
ずっと一人暮らしだった。少なくとも復員してからの十年間はそうだった。
この家は私だけの領域で在ったし、偶に樋口が酔いつぶれて居間で寝てしまう位のもので、、
明らかな異物。出会って間も無い、得体も知れない学生との共同生活を始める事になるなど
誰が想像出来ただろうか。
しかし私は特に違和感も感じず、彼の奉仕に甘んじていた。
彼も遠慮がちにしながらも何とは無しにこの家に馴染んでしまったのだ。
吊橋上の恋の様なものだろうか
…否、こういう例えだと気持ちが悪いな。
只、情報の刷り込みと云う意味での例え話なのだが――
あの事件で――(私は櫻事件と呼んでいるが)少なくとも彼の中から彼の異物(別人格)を認識するまでは彼自身もあの屋敷に対して漠然とした不安を感じていたらしい。
私も蒼井と言う少女からあの話を研究室に持ち込まれてからずっと不安を胸の内に育てていた。
同じ世界を共有すると人の間の距離は近寄った様に錯覚するものでこの不自然に馴染む流れもそう云った事に拠るものだと自分に言い聞かせていた。
人の心に向き合う事は自分を見失う事といつも危惧している必要がある。
それは誰から教わる事も無く、沢山の書物と経験から割り出した私の達観であるが
私は如何にも彼と関わると非常に感情の琴線が動揺するから
それを踏まえた上でも更に余計な心構えをする羽目になっていた。
そんな事は想定した上での共同生活では在ったのだが…
不意に縁側の木を踏む音がする。
彼が華奢である所為か彼の足音は意識をして居ないと聞こえない。本なんて読んでようものならとんと気が付かない。
何日か前も茶卓で読書に没頭してしまい、気が付いたら魔か幽霊の様に彼の姿が突然現れたから私は思わず動揺して目の前に置いてあった茶を倒した程だ。
彼は笑って手拭いでソレを拭き、私に新しい茶を入れて何事も無かったかの様に自分も私の書庫から持ち出してきた本を読み始めた。
静かな空間、彼は本を読むのに集中する。
私は逆に集中出来なくなり、目の前の彼の顔を眺める羽目になった。
長い睫、白い肌、少し色素の薄い髪――
縁側から差し込む光が彼のその特徴をさらに強調していた。
その姿に記憶を探っても探っても何も出て来ない〝在る筈なのに形を潜める〟記憶に非常にもどかしい思いを感じる、そんな時間を積み重ねた。
鳥の鳴き声と稀に通る車の機械音がその積み重ねを霧散させた――
彼に直接問うも思い当たる所は無いらしく、一向に要領を得ない事で今、目の前に居る野々村の中に記憶を別に隔離している人格の存在を知る。
矢張り、乖離していたな。
散々問答を繰り返し、分かった事は彼が〝判らない領域〟だけで私の過去に纏わる記憶は何一つ、今の――通常の野々村の中には無いらしく
(私は彼では無いので真偽の程は定かでは無いが仮定を立てる事は有効だと私は考える。)
彼曰く、乖離している記憶を自分に呼び戻す為にこの研究室に入ったのだそうだ。
記憶の情報到達が遅れると言ったのもあながち嘘では無かったのだが彼にしてみれば方便でも在ったらしい。彼自身、記憶に障碍が在る事を認めかねて居るようだ。
私は彼の記憶が欠けている時間を今の彼に余す事無く教えた。彼は虚空に視線を向け、惚けた様に暫く聞いていたが話を頭で噛み砕き終わった位に
「僕は貴方に治療を求めていない――何て大口叩いて、今こうしてお手を煩わせている事が――」
心苦しいです――
彼は語尾窄めながらそう云って非常に尻の据わりが悪い様な顔をして苦笑した。
「否、手を煩わせるも何も――如何にも君の欠いた記憶――その人格と私の欠いた記憶が如何にも噛みあって居ると言うか、連動している様な気がしてならないんだよ。
だから結局の所‥私が自身の為に探る事が君に行き着く所であったり、君を探る事が私の行きつく先だったりで一方的に助けている様に思われては具合が悪いのだが――」
彼は私の言葉を受けて長い長い溜息を付きながら自分の茶を入れ、そっとそれを飲み
「僕が此処に来ているのは僕の意思なんでしょうか――」そう不安げに云った。
「君の意思と言うよりは――君の中の――」
「僕の中の僕も含めて僕は僕ですよ。」
「――え?」
【続く】