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その日は珍しく、瀬名が遅くまでフロアに残っていた。 根詰めて作業をしていた理人がふと顔を上げると、「お疲れ様です」とタイミングよくコーヒーが差し出される。
「あぁ、すまない」
一瞬戸惑ったものの素直に受け取り、ゆっくりと口に含む。程よい苦味と酸味が、強張っていた理人の神経を解きほぐしていく。
「ここのところ、ずっと残業続きですね」
「……まぁな。課長の復帰がまだ先になりそうだから、雑務が溜まっててな」
「そんなの、朝倉さんに振ればいいじゃないですか」
「アイツは駄目だ。ただでさえ使えねぇのに、ここ最近はさらに酷い。自分の仕事すらまともに出来てないし、ミスも多い……」
「あぁ、確かに」
瀬名も何か感じるところがあるのか、同意するように苦笑した。
「……で、お前はどうしてこんな時間まで残ってるんだ?」
「どうしてって……少しでも、あなたの側に居たくて」
ストレートな言葉に、心臓がドクンと跳ねた。
「……っ」
不意打ちの言葉に、思わず視線を逸らす。瀬名は時々、恥ずかしげもなくこういう台詞をさらりと言うから困る。昨夜の自慰の際、彼の声を妄想していたことも手伝って、理人は過剰に意識してしまった。
「冗談ですよ」
瀬名はクスリと笑うと、理人の椅子を強引に反転させ、自分と向き合わせる。そのまま机の上に手を置いて、身を乗り出してきた。
「おい、何のつもりだ……まだ仕事が――……」
「知っていますよ。だから、ちょっとだけ……キス、させてください」
「はぁ!?」
突拍子もない申し出に、思わず声が裏返る。
「キスだけはいいって、言ったじゃないですか」
「……ッ」
確かに言った。だが、ここはオフィスだ。いつ誰が入ってくるかもわからないというのに……。瀬名の真意を測りかねて見つめ返すと、その切なげに揺れる瞳に捕まった。
そんな目で見つめられたら、断れるはずがなかった。
「……本当に、少しだけだぞ」
「はい」
瀬名は嬉しそうに微笑むと、ゆっくりと顔を近づけてくる。 そっと触れるだけの、羽のようなキス。もどかしくて、くすぐったい。 ふわりと降り注ぐように漂う瀬名の煙草の香りに、昨夜の「背徳的な一人遊び」を鮮明に思い出してしまい、理人の体温は一気に沸点を超えた。
(……っ、まずい……!)
咄嗟に両手で瀬名の胸を突き、慌てて顔を逸らす。
「……っ」
手の甲で口元を押さえた。唇に残った熱が、全身を焼き尽くしそうで落ち着かない。
「……理人さん……?」
予想外の拒絶に、瀬名の表情が一瞬で曇る。ショックを隠し切れないその顔に、理人は胸を痛めた。
本当に嫌だったわけじゃない。むしろ逆だ。 心臓が壊れそうなほど跳ね上がり、あの視線に捕まれば、どこまでも流されてしまう。だからこそ、理性を振り絞って拒んだのだ。
「……馬鹿野郎。ここは会社だぞ」
低く唸るような声は、自分自身への戒めでもあった。 瀬名は小さく目を伏せ、それでも諦めきれないように、理人の袖口を指先で微かに掴む。
「……わかってます。でも、少しでも触れていたいんです」
そのか細い声に、胸が締め付けられる。 触れたい。抱き寄せたい。けれど、それを許せば一線を越えるのは時間の問題だ。どうにか衝動を抑え込み、震える吐息を飲み込む。
「……すみません、少しがっつきました。……僕、帰りますね」
「あっ、ち、違……ッ」
立ち去ろうとする瀬名の腕を、理人は思わず掴んでいた。
「理人、さん?」
「違くて……その、嫌だったわけじゃ……」
必死に言葉を探すが、声はしどろもどろになる。 そんな理人の、今にも泣き出しそうな、それでいて期待に満ちた表情を見て、瀬名ははぁ、と盛大な溜息を吐いた。