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このままでいいと思っていた。
少なくとも、少し前までは。
好きだと言わなくても、おんりーはそばにいる。仕事で顔を合わせて、何でもない話をして、時々二人で飯を食べる。家へ遊びに来ることもあるし、帰り道が一緒になれば、そのまま駅まで並んで歩くこともある。
それで十分だと思おうとしていた。
MENに気持ちを見抜かれた時もそうだった。
今の感じが嫌じゃないなら、急がなくてもいいんじゃないすか。
そう言われて、ぼんじゅうるは少しだけ楽になった。告白しなくてもいい。答えを出さなくてもいい。好きだという気持ちを自分の中だけに置いて、今まで通りおんりーの隣にいられるなら、それでいい。
失うくらいなら、今のままでいい。
そう決めた。
決めたはずだった。
けれど、気持ちは、決めた通りには動いてくれなかった。
その日は朝から、少しおかしかった。
体調が悪いわけではないし、眠れていないわけでもない。収録が始まれば普通に話せるし、冗談を振られれば笑える。表面だけなら、いつもと何も変わらなかった。
ただ、気を抜くと、おんりーを見ていた。
向かいの席でパソコンを見ている姿や、ペットボトルへ手を伸ばす仕草、眼鏡の位置を指先で直す動作。誰かの話を聞きながら、ごく小さく笑う表情まで、気づけば目で追っている。
どれも毎日のように見ている動作だった。それなのに、その日は一つずつ妙に目に残った。見慣れているはずのものが、いつもより近く、いつもより鮮明に見える。
「ぼんさん。」
名前を呼ばれて、ぼんじゅうるははっと顔を上げた。
おんりーがこちらを見ている。
「何?」
「さっき聞いてた?」
「聞いてたよ。」
ほとんど反射で答えたものの、おんりーの眉がほんの少し上がった。
「じゃあ何て言った?」
「……。」
答えられない。
何を話していたのか、本当に分からなかった。おんりーの声は聞こえていた。音としては耳に入っていたはずなのに、内容だけがきれいに抜け落ちている。
「ごめん。聞いてなかった。」
正直に言うと、おんりーが小さく息を吐いた。
「だと思った。」
呆れているような声だった。でも、その最後には、ほんの少しだけ笑いが混ざっていた。
それだけで、ぼんじゅうるの胸はまた簡単に反応した。たったそれだけのことで嬉しくなってしまう自分が、少し情けなくなる。
「ごめんって。」
「別に。」
おんりーは画面へ戻り、ぼんじゅうるも自分のパソコンへ視線を戻した。文字が並んでいる。何度か目で追ってみるけれど、しばらく意味が頭に入ってこなかった。
好きだな。
理由を考えるより先に、ただそう思った。
何か特別なことをされたわけではない。笑われただけで、少し呆れられただけだ。それなのに、その何気ない反応一つで、胸の奥が簡単に満たされてしまう。
その感情は、もう以前のように小さくなかった。
おんりーが笑えば嬉しい。近くに来れば落ち着かない。帰ると言われれば、あと少しいればいいのにと思う。別れたあとには、次に会う日を考えている。そうやって積み重なったものを一つずつ見つめてしまえば、もう誤魔化しようがなかった。
ひとつずつなら、まだ誤魔化せる。
けれど、全部並べてしまえば、もう無理だった。
仕事が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「お疲れさまでしたー。」
声が重なり、各自が荷物をまとめて、ばらばらに帰り始める。ぼんじゅうるも机の上のものをバッグへ入れ、肩に掛けた。
そのすぐ横、椅子の背には上着が掛かっていた。
いつもなら気づく。忘れ物には比較的気をつけているし、帰る前には一度、周囲を確認する。それなのに、その日は一度もそちらを見なかった。
帰り際、おんりーと目が合ったことばかり考えていた。
「お疲れ。」
ただ、それだけだった。いつもの声で、いつもの短い挨拶だった。それでも、目が合ってから逸れるまでが、ほんの少し長かったような気がした。
また、そんなことばかり考えている。
エレベーターを待ちながら、ぼんじゅうるは自分でも嫌になった。あれに意味があるのか、ないのか。考えても分からないし、何度同じところを回っても答えは出ない。それでも、考えることをやめられなかった。
上着が残されていることに気づいたのは、おんりーだった。
自分の荷物をまとめて帰ろうとした時、ふと、椅子の背に掛かった黒い上着が目に入った。見覚えがある。手に取って確かめるまでもなく、それがぼんじゅうるのものだと分かった。
「……。」
スマートフォンを出し、『上着忘れてる。』と打つ。そこまで入力して、指が止まった。
明日渡せばいい。別に急ぐものでもない。
そう思ったものの、窓の外へ目を向けると、夜は思っていたより冷えていた。ぼんじゅうるは薄い服のまま帰ったはずだったし、本人は上着を忘れたことにも気づいていない。
一度、手の中の上着を見る。
もう一度、スマートフォンを見る。
自宅の方向は同じだった。多少寄り道になるだけで、時間もそれほどかからない。それだけのことだった。
本当に、それだけの理由でいいはずだった。
けれど、上着を手に取った時、おんりーの中には別の考えも浮かんでいた。
明日まで待てばいい。
そう思う一方で、明日まで待つ理由もない気がした。
ぼんじゅうるが寒い思いをしているかもしれない。忘れたことに気づかないまま、薄着で帰っているかもしれない。そんな想像をすると、胸の奥が落ち着かなかった。
それだけなら、メッセージを送れば済む話だった。
上着、忘れてる。明日渡す。
そう伝えればいい。
なのに、指は送信ボタンを押さなかった。
文章にしてしまえば、それで終わる。ぼんじゅうるから返事が来て、明日渡せばいい。わざわざ会いに行く必要はない。
それでも、おんりーは上着を置いて帰ることができなかった。
今日のぼんじゅうるの様子が、朝からずっと引っかかっていた。
何度もこちらを見ていた。話を聞いているようで、どこか上の空だった。帰り際に目が合った時も、いつもより長く視線が重なった気がする。
気のせいかもしれない。
そう思おうとした。
けれど、気のせいだと片づけるには、ぼんじゅうるの顔が少し寂しそうだった。
何かあったのかもしれない。
そう考えた時には、もう足が自宅とは別の方向へ向いていた。
自分でも、なぜそこまで気になるのか分からなかった。
ただ、ぼんじゅうるが困っているかもしれないと思うと、放っておけなかった。
それに、少しだけ顔を見たかった。
その理由を、上着のせいにできるなら、それでよかった。
インターホンが鳴った時、ぼんじゅうるはソファに座っていた。
帰宅してからも、何をするでもなくスマートフォンを眺めていた。画面を指で動かしてはいるけれど、何を見ているのか自分でもほとんど分かっていない。今日のおんりーの表情や声を思い返しては、意味のあるものにしようとして、結局何も分からないまま同じところを回っていた。
短い電子音が部屋に響く。
こんな時間に誰だろうと思いながら立ち上がり、モニターを見る。そこに映った顔を見た瞬間、思考が止まった。
「……え。」
おんりーだった。
一瞬、本気で見間違えたと思った。画面の中のおんりーは、片手に何かを持っている。
通話ボタンを押す。
「……はい。」
自分の声が少し掠れた。
『ぼんさん。』
スピーカー越しの声は、機械を通して少し薄く聞こえた。それでも、聞いた瞬間に胸の奥だけが妙にはっきり反応する。
「どうしたの?」
『忘れ物。』
おんりーがカメラの前へ上着を持ち上げた。
「あ。」
そこで初めて気づいた。
「俺、それ忘れてた?」
『だから持ってきた。』
「え、わざわざ?」
『方向同じだし。』
あまりにも普通に言う。その一言が、ぼんじゅうるの胸の中へゆっくり落ちていった。
方向が同じ。だから、それだけ。
分かっている。明日でもよかったのに、わざわざ自分の家まで来てくれた。けれど、そんなふうに考えるな。おんりーは親切なだけで、困っていると思ったから持ってきただけだ。
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥では別の感情が膨らんでいく。
「今開ける。」
玄関へ向かう足が、自分でも分かるくらい少し速くなった。
ドアを開けると、夜の冷たい空気が部屋の中へ入り込んだ。
おんりーが立っている。片手に上着、もう片方にはスマートフォンを持っていた。外にいたせいか、頬が少し冷えて見える。
「はい。」
「ありがと。」
上着を受け取る。その時、指が触れた。
ほんの一瞬だった。
おんりーの指は、思っていたより冷たかった。ぼんじゅうるの手のほうが、室内にいたぶん暖かい。その温度差が、触れたところから妙にはっきり伝わってくる。
すぐに離れた。
おんりーは特に気にした様子もなく、ぼんじゅうるの服装へ目を向けた。
「寒くなかった?」
「ん?」
「上着なしで。」
「ああ。」
ようやく自分の格好を見る。
「全然気づいてなかった。」
「ほんと今日変じゃない?」
ぼんじゅうるの胸が、一瞬だけ詰まった。
「え。」
おんりーは少し首を傾げる。
「仕事中もぼーっとしてたし。」
「……そう?」
「うん。」
目が合う。
おんりーの視線は、思っていたより長くぼんじゅうるの顔に留まった。心配されている。そう思った。
また、勝手に意味をつけているだけかもしれない。でも、家まで上着を持ってきて、今日、自分の様子がおかしかったことまで覚えていて、今もこうして顔を見ている。
胸の奥にあったものが、少しずつ限界へ近づいていく。
「大丈夫?」
その声は、いつもより少しだけ低く、柔らかかった。心配している時のおんりーの声だ。たぶん、そういう意味しかない。分かっている。
それでも、その声を聞いた瞬間、ぼんじゅうるは思った。
もう無理だ。
これ以上、平気なふりをして、何でもない顔で隣にいて、少し優しくされるたびに期待して、そのあと自分で全部否定する。それをこの先もずっと続けるのは、もう無理だった。
「……おんりー。」
名前を呼ぶ。
自分の声が、思ったより低く出た。おんりーの視線がほんの少し揺れる。
ぼんじゅうるは上着を持ったまま、玄関に立っていた。何を言う。何を言えばいい。
頭の中では何度も想像したことがあった。もし告白するなら、こう言う。ああ言う。そんなふうに何度も考えていたのに、本当にその瞬間が来ると、用意していた言葉なんて一つも出てこなかった。
「ぼんさん?」
呼ばれる。その声が、また近い。
「俺さ。」
一度、息を吐く。喉が乾いている。心臓の音が、自分にだけ聞こえているような気がした。
「このままでいいと思ってたんだよね。」
おんりーは何も言わない。
「今まで通りで。」
言葉を出すたび、もう戻れない場所へ進んでいるような気がする。
「普通に飯行って、ゲームして、喋って。それでいいって。」
本当に、そう思っていた。少なくとも、そう思おうとしていた。
「今の感じ、なくなるほうが嫌だし。」
口にした瞬間、MENへ話した時のことを思い出した。
失いたくない。だから言えない。
あの時は確かにそうだった。
「だから。」
ぼんじゅうるは一度視線を落とした。手の中の上着。黒い布。おんりーが持ってきてくれたもの。
「言わないほうがいいと思ってたんだけど。」
顔を上げる。
おんりーと目が合う。瞳が、わずかに揺れた。その小さな変化に、心がまた反応する。
期待するな。
今は、期待するために言うわけじゃない。
「……無理だった。」
小さな声だった。玄関の静かな空気の中に、その言葉が残った。
おんりーは動かなかった。
ぼんじゅうるは、もう一度息を吸う。胸が苦しい。でも、ここまで言ってしまえば、もう戻ることはできない。
「おんりーのこと、好きなんだよね。」
言った。
思っていたより、普通の言葉だった。それなのに、口から出た瞬間、身体の中から何か大きなものが抜けたような感覚がした。
軽くなったわけではない。むしろ、怖さだけが一気に押し寄せてくる。
言った。本当に、言ってしまった。
「……結構前から。」
声が少し震えた。隠す余裕はなかった。
「多分、今日変だったのもそれ。」
笑おうとする。でも、頬がうまく動かない。
「ごめん。」
何に謝っているのか、自分でも分からなかった。
「こんなタイミングで。」
おんりーは、何も言わなかった。
沈黙が落ちた。
数秒。本当は、それくらいだったのかもしれない。でも、ぼんじゅうるにはひどく長く感じられた。
空調の音。遠くを走る車。冷たい空気が玄関から少しずつ入り込んでくる。自分の指先が冷えていく。そんなことばかりが妙にはっきり分かった。
顔を上げる。
おんりーは驚いていた。
普段ならほとんど変わらない表情が、今はうまく整えられていない。目が少しだけ開いていて、唇もわずかに離れている。
視線が、ぼんじゅうるの目から口元へ移り、そこから手元へ落ち、また顔へ戻る。その動きが小さく揺れている。
ぼんじゅうるには、それが答えを探しているように見えた。
でも、何の答えを探しているのかまでは分からない。
「……え。」
ようやく出た声は小さく、それだけだった。
その一音を聞いた瞬間、ぼんじゅうるの胸の奥が冷えた。
あ。
違った。
そんな考えが、ほとんど反射で浮かぶ。
「いや。」
自分から逃げようとする。
「ごめん。今の忘れて。」
「待って。」
おんりーの声が少し強くなった。
ぼんじゅうるが止まる。
「忘れろって無理でしょ。」
いつものおんりーらしい言い方だった。でも、声が違う。いつもより少しだけ不安定で、最後がほんのわずかに揺れていた。
ぼんじゅうるは、その変化に気づいた。
「……うん。」
それしか言えなかった。
おんりーは視線を落とす。玄関の床、ぼんじゅうるの手、上着、そしてまた顔へと視線が動く。目が定まらない。
こんなふうに動揺しているおんりーを見るのは、ほとんど初めてだった。
「なんで。」
小さく言う。
「え?」
「なんで今。」
責めている声ではない。むしろ、自分でも理由が分からないような声だった。
ぼんじゅうるにも分からなかった。
「……分かんない。」
少しだけ笑った。笑わないと、自分の顔がどうなるか分からなかった。
「自分でも。」
おんりーは黙る。
また沈黙が続いた。
その間に、ぼんじゅうるの頭の中には最悪の想像がいくつも浮かんだ。困らせた。やっぱり違った。今までのことは全部勘違いだった。これでもう、以前みたいには戻れない。
一番怖かったことを、自分から起こしてしまった。
「おんりー。」
呼ぶ声が弱くなる。
「別に返事、今じゃなくても。」
言ってから、胸の奥が痛くなった。
本当は今すぐ知りたい。同じなのか、違うのか。聞きたい。
でも、おんりーの顔を見ていたら、急かすことはできなかった。スマートフォンを持つ指が少し強くケースを掴んでいる。その指先にまで力が入っているのが分かる。
「……待って。」
小さな声だった。
ぼんじゅうるは一瞬、意味が分からなかった。
「え?」
「返事。」
おんりーは一度息を吸った。思っていたより深い呼吸だった。肩がほんの少し持ち上がり、ゆっくり下がる。
「ちょっと待ってほしい。」
その言葉が、ぼんじゅうるの中へ落ちた。
待ってほしい。
嫌ではない。無理でもない。頭では分かる。
でも、胸はそんなに器用には受け取れなかった。
「……そっか。」
できるだけ普通の声を出した。思っていたより、ちゃんと出た。
「うん。」
おんりーはまだ、こちらをまっすぐ見られない。そのことが、ぼんじゅうるには少し怖かった。
「大丈夫。」
言う。
全然大丈夫ではない。でも、それ以外に何を言えばいいのか分からなかった。
「急がなくていいよ。」
自分の言葉が胸に刺さる。
おんりーが顔を上げる。目が合う。
困っている。戸惑っている。でも、それだけではない気がする。何か言おうとしているけれど、まだ言葉にできない。そんな顔だった。
「ごめん。」
「なんで謝るの。」
「……分かんない。」
「じゃあ謝んなくていいって。」
ぼんじゅうるは少し笑った。できるだけ、いつもの笑い方に近づける。
おんりーが、その顔を見る。そして、少しだけ苦しそうに眉を寄せた。
その表情を見て、ぼんじゅうるはまた分からなくなる。
嫌なら、こんな顔をするのだろうか。
でも、期待するのは怖い。
「ぼんさん。」
「ん?」
おんりーが一度だけ唇を結ぶ。それから、迷うように視線を揺らしながら口を開いた。
「嫌とかじゃないから。」
ぼんじゅうるの心臓が、強く鳴った。
その一言だけで、沈みかけていた気持ちが勝手に浮き上がる。顔には出さないようにしたけれど、出ているかもしれない。
「うん。」
「ただ。」
おんりーは言葉を探す。視線が一度横へ流れ、戻り、また少し落ちる。
「……びっくりしてる。」
正直な声だった。
「うん。」
「ちゃんと考えたい。」
ぼんじゅうるは少しだけ息を吐いた。
「うん。」
それ以上、聞かなかった。聞けなかった。
でも、嫌ではない。
その言葉だけが、胸の奥に残った。
「じゃ。」
おんりーが言う。
いつもの別れの言葉。でも、声は少しぎこちなかった。
「送ってくれてありがと。」
ぼんじゅうるは上着を持ち上げる。
「忘れんなよ、次から。」
「はい。」
少し笑う。
おんりーも、ほんのわずかに笑った。それでも、いつもの笑い方とは違う。まだ何かを考えている顔だった。
ドアを開けると、冷たい空気がもう一度、玄関へ流れ込んできた。
おんりーが一歩外へ出る。二歩進んだところで、一度振り返った。
ぼんじゅうるを見る。
何か言うのかと思った。一瞬だけ、期待する。
でも、おんりーが口にしたのは、短い挨拶だけだった。
「……おやすみ。」
「おやすみ。」
ドアが閉まる。
鍵をかけたあと、ぼんじゅうるはその場から動けなかった。
手には上着がある。玄関の照明も、さっきまでおんりーが立っていた場所も、何も変わらないまま残っている。
言った。
好きだと。
本当に、言った。
「……言っちゃった。」
声に出した途端、実感が一気に押し寄せる。両手で顔を覆うと、頬が熱くなっているのが分かった。耳も、多分真っ赤になっている。
誰も見ていないのに、今さらひどく恥ずかしい。
何をしているんだ、自分は。
MENには、急がなくてもいいと言われた。自分だって、このままでいいと思っていた。それなのに、言った。好きだと。
そして、返事は待ってほしいと言われた。
明日、どうする。次に会った時、普通にできるのか。
考えるほど、胃のあたりが落ち着かなくなる。それでも、胸の中には一つだけ、どうしても消えない言葉があった。
『嫌とかじゃないから。』
その声。その時のおんりーの目。
あれは、どういう意味だったのだろう。
また考えてしまう。
結局、告白しても、ぼんじゅうるはおんりーの一つ一つに意味を探していた。
一方、家を出たおんりーは、しばらくいつもの速度で歩けなかった。
早くなって、気づけば遅くなって、また少し速くなる。夜の空気は冷たいはずなのに、頬だけが妙に熱かった。
耳の奥には、まだぼんじゅうるの声が残っている。
『おんりーのこと、好きなんだよね。』
思い出した瞬間、胸の奥が強く鳴る。
おんりーは足元を見た。暗いアスファルト、街灯の光、その下に伸びる自分の影。予想していなかったわけではない。
何度も考えた。
視線が長い。距離が近い。二人で帰る時、別れる直前だけ少し声が変わる。
もしかしたら。
そう思ったことはあった。何度も。
でも、そのたびに勘違いかもしれないと思った。その可能性が、自分を守っていた。
勘違いなら、何も言わなければいい。自分の中だけで少し嬉しくなって、少し期待して、また元に戻せばいい。
でも、勘違いではなかった。
ぼんじゅうるは、好きだと言った。
曖昧だったものが、現実になった。
その瞬間、嬉しいより先に怖くなった。
今までの関係が、本当に変わる。
そう思った。
これまでは、向こうも好きかもしれないし、そうではないかもしれない。その曖昧な場所にいられた。そこなら、何も決めなくていい。自分の気持ちにも、名前をつけなくていい。
でも、もう違う。
ぼんじゅうるは言った。今度は、自分が答える番になる。
そのことが怖かった。
ぼんじゅうるが嫌なのではない。むしろ、そこが一番困った。
告白された瞬間、驚いた。頭が真っ白になった。逃げたいような気持ちまで出てきた。
でも、その奥で、確かに嬉しいと思った。
その気持ちがあるからこそ、適当に答えたくなかった。
おんりーは、ぼんじゅうるのことを嫌いではない。
それどころか、ぼんじゅうるが自分を見ていることに気づくたび、胸の奥が少しだけ浮ついていた。名前を呼ばれると、他の人に呼ばれる時よりも意識してしまう。隣に座られると、近いと思うのに離れてほしくはない。帰り道が一緒になる日は、別れたあとに少しだけ物足りなさが残る。
ぼんじゅうるが笑っていると安心する。疲れているように見えると気になる。何でもない話をしているだけなのに、その時間が終わるのを惜しいと思うことがある。
それを、ただ仲がいいからだと思っていた。
そう思っていれば、今まで通りでいられた。
けれど、今日、ぼんじゅうるの口から好きだと聞いた瞬間、その言葉が自分の中にあったものまで引きずり出した。
嬉しかった。
その事実を認めるのが、怖かった。
もし、すぐに嬉しいと答えてしまったら、勢いだけで返事をすることになる。ぼんじゅうるが大切だからこそ、曖昧なまま頷きたくなかった。
付き合いたいのか。
これからも、今までのように隣にいたいのか。
それとも、今の関係を失うのが怖くて、ぼんじゅうるの気持ちに縋ろうとしているだけなのか。
自分の中にある感情を、一つずつ確かめたかった。
ぼんじゅうるを傷つけたくない。
でも、分からないまま答えて、あとから迷うほうが、もっと傷つける気がした。
だから、待ってほしいと言った。
拒むためではない。
逃げるためでもない。
ぼんじゅうるの気持ちを、軽い驚きやその場の嬉しさだけで受け取らないためだった。
おんりーはスマートフォンを取り出した。
ぼんじゅうるとのトーク画面を開く。何か送ろうと思った。
『さっきのこと』
打つ。
消す。
『ごめん』
打って、それも消す。
謝ることではない。ぼんじゅうるは何も悪くない。自分がまだ、自分の気持ちを言葉にできないだけだ。
本当は、すぐにでも何か伝えたかった。
驚いたこと。
嬉しかったこと。
返事を待ってほしいと言ったのは、嫌だったからではないこと。
でも、それを文章にしてしまえば、今度はその言葉に責任を持たなければならない気がした。自分の気持ちを整理できていないまま、ぼんじゅうるに期待させるようなことを言うのは怖かった。
画面を閉じる。
少し歩く。
また開く。
ぼんじゅうるの名前が表示されている。その名前を見るだけで、さっきの声が戻ってくる。
少し震えていた。
怖かったのだと思う。多分、自分と同じくらい、今の関係が変わることを怖がっていた。
それでも、言った。
おんりーは足を止めた。
夜風が髪を揺らす。冷たい。それなのに、胸の奥だけがずっと暖かい。
ぼんじゅうるは、返事を急かさなかった。
急がなくていいと言った。
その言葉に、少しだけ救われた。待ってもらえることが嬉しいと思った。同時に、待たせてしまうことが苦しかった。
ぼんじゅうるは、きっと不安になっている。
嫌ではないと言っただけでは、足りないかもしれない。けれど、今の自分には、それ以上を口にする勇気がなかった。
「……ずるい。」
小さく呟く。
聞こえる人はいない。
ぼんじゅうるは、本当に待つつもりなのだろうか。急かさない。それもまた、ぼんじゅうるらしい。
優しくされるほど、答えを曖昧にしてはいけないと思う。
でも、考える時間が必要だった。
ぼんじゅうるとこれからも一緒にいたいと思う気持ちが、恋なのか。
それとも、今まで積み重ねてきた時間を失いたくないだけなのか。
考えても、すぐには答えが出ない。
ただ、ぼんじゅうるに告白されて嫌だったわけではない。
むしろ、ずっと心のどこかで待っていたのかもしれない。
そう思ってしまう自分が、怖かった。
トーク画面を開く。
少し考えてから、『上着ちゃんと着て。』と送った。
それなら、今の自分にも言える。
心配していること。
気にかけていること。
まだ返事はできなくても、ぼんじゅうるを突き放したいわけではないこと。
数秒後、既読がつく。
『はい。ありがとう。』
いつも通りの返事だった。
それを見た瞬間、胸が少し痛くなる。もっと何か言いたい。でも、まだ言葉にならない。
だから、画面を閉じて歩き出す。
返事は、まだできない。
けれど、返事をしたくないわけではなかった。
ぼんじゅうるのことを、ちゃんと考えたい。
自分の気持ちを、ぼんじゅうるの前で誤魔化さずに言えるようになりたい。
そのために、少しだけ時間が必要だった。
でも、一つだけ、はっきりしていることがあった。
告白される前と同じ場所には、もう戻れなかった。
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あっ…言っちゃった…!もう第1話からずっと「言え言え…でも言わないでくれ…」って揺れてたんだけど、ついにきたね。おんりー視点で「嬉しいと思った自分が怖い」「ちゃんと考えたい」って葛藤してるところが尊すぎてやばい…どっちの気持ちもわかるから苦しいよ。 上着届けてくれただけで舞い上がるぼんじゅうると、届ける口実を作ったおんりーの温度差がもう…次のエピソードが待ちきれん🔥
たこ焼き手裏剣
167
謳
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