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小さく笑い、ふと見上げてきた桔流に、花厳は首を傾げる。
「ん?」
すっかりと力が抜けている桔流は、ゆるりと微笑み、ゆるりと紡ぐ。
「かざりさん……それ……なんか……、――ヤらしい、いみ……はいってますか?」
ベッドの件に関しては、嘘偽りなく、純粋な気遣いからの言葉だった。
しかし、その手前で、桔流に対し邪な想像をしていた事も、また事実だった。
それゆえ、花厳は、思わず言葉に窮した。
― Drop.010『 Stir〈Ⅲ〉』―
そんな花厳だったが、すぐに自身を落ち着けると、あくまでも平静を装い、苦笑して言った。
「まさか……」
すると、桔流は、
「ふぅん……。――なぁんだ……」
と呟くと、正面に向き直り、目を伏せた。
花厳は、そんな桔流の言葉に微かに動揺する。
そして、黙したまま、桔流の横顔を見つめた。
「………………」
先ほどの桔流の言葉は、いつもの“からかい”だと思った。
しかし、からかいにしては、その後の落胆したような声色と、含みのある言葉が妙に気になる。
花厳は、己の心に妙な圧迫を感じ、静かに息を吐く。
そして、それに圧されるまま、花厳は尋ねる。
「――………………残念そう、だね」
そんな花厳の声に、くたりとソファにもたれたままの桔流は、ゆっくりと瞬きをする。
「――………………」
花厳は、黙したままの桔流に静かに続ける。
「――“そういう意味”だった方が、良かった?」
すると、桔流は、相変わらず正面を向いたまま、またひとつ瞬きをすると、先ほどより少ししっかりした口調で言った。
「――……どうでしょう……。――自分でもよく、分からないですけど……。――ただ」
「――……“ただ”?」
花厳は、ゆっくりと繰る。
桔流は紡ぐ。
「――……どっちでも……いいかなって、思いました……」
そんな桔流の言葉に、つい欲心を煽られた花厳は、本能に駈られそうになる自身を制し、伺う。
「桔流君。それ……。この状況で言われると、誘い文句みたいにも聞こえるけど……」
すると、桔流は、ひとつ息を吐いて言う。
「――……そうですね。――……でも、それも……どう受け取ってくれても……いいです……」
もし、今、目の前にいる相手が桔流でなければ、花厳は迷いながらも、その者の肌に――、その首筋に――、手を伸ばしてただろう。
だが、今、花厳の目の前に居るのは、桔流なのである。
よって、花厳は、桔流との間にあるこの一線を、情欲に駈られた勢いで越えるわけにはいかなかった。
花厳にとって、桔流はすでに、“恋する人”ではなく、“愛する人”となっているのだ。
だからこそ、花厳は、一時の欲心に運命の選択権を委ねるわけにはいかなかった。
(急ぐ必要はない。――今、欲に負けてこの一線を越えてしまったら、きっと、桔流君はまた、誤った方向に進んでしまう。――今の彼に、体の関係は必要ないんだ……)
花厳は、アルコールと本能が理性を屈服させようとする圧を払いのけ、ひとつ微笑んだ。
「そっか。――でも、ベッドの事は本当に、変な意図があって言ったわけじゃないんだよ。――だから、安心して休んでくれて大丈夫。――仕事終わりだし、君も疲れてるでしょう」
桔流は、そんな花厳の言葉を黙したまま聞く。
花厳は、自分に暗示をかけるようにして、続けた。
「あぁ。そうだ。それと。――桔流君。君は美人さんなんだから。ああいう可愛い誘い文句も、あまり気軽に言わない方がいいよ」
そして、相変わらず黙したままの桔流に、
「――さ。じゃあ、ベッドまで案内するよ。――肩を貸すから、おいで」
と、花厳が言うと、桔流は、
「……はい。ありがとうございます」
と、素直に頷き、花厳の肩を借りて立ち上がった。
肩を貸して立ち上がると、桔流の体温が、今まで以上にはっきりと感じられた。
桔流と出会ってから、最も近い距離で桔流の存在を感じる事となった花厳は、己の欲心が甘く囁くのを感じた。
しかし、そんな甘い囁きも理性で払いのけながら、花厳は、桔流を寝室まで連れてゆく。
そして、寝室に到着すると、桔流を自身のベッドの淵に座らせた。
桔流はそこで、改めて礼を言う。
「ありがとうございます……。――でも、この服のままベッド使っちゃっていいんですか?」
しばし時間が経った事で酔いが醒めてきたのか、桔流の口調は、未だゆるりとしていながらも、普段の調子に戻りつつあった。
そんな桔流に微笑むと、花厳は言った。
「あぁ。大丈夫だよ。そういうの、あまり気にしないから。桔流君さえ問題なければ、そのまま休んで」
すると、柔らかなシーツの感触を確かめるようにした桔流は、またひとつ礼を言った。
「すいません。ありがとうございます」
花厳はそれに、
「いいえ」
と、笑むと、次いで、
「――あぁ。そうだ」
と言い、自身もベッドに片膝を付くようにして乗るなり、ベッドボードに置かれたスタンドライトに手を伸ばした。
そして、スタンドライトを点け、好みの照明具合を尋ねようとしたところで、ふと動きを止めた。
己の服が、何かにつんと引かれるのを感じたからだ。
その感覚を不思議に思い、花厳がふと自身の腰元を見やると、白く美しい指が、花厳の服の裾を掴んでいるのが見えた。
花厳は、それを一目してから、桔流を見た。
「……桔流君?」
そんな桔流は、目を伏せ、幾本かの流線を描いたシーツに視線を落としている。
状況が呑み込めず、花厳は、そのままの状態で、今一度桔流に尋ねる。
「……どうしたの?」
すると、やんわりと暖色に照らされた流線を見つめたまま、桔流は言った。
「そういうトコで押さないから、逃がしちゃうんですよ。――花厳さん」
その言葉に、花厳は黙す。
「――………………」
そんな花厳をよそに、桔流は、つんと引いていた花厳の服の裾を、親指と人差し指で擦るようにしながら弄ぶと、続けた。
「――そうやって、相手のためばかりを考えて、本当の自分の気持ちは後回しにして、後回しにした事すら相手に伝えないまま我慢して、――ただただ、それを繰り返して――。――それじゃあ相手は、花厳さんの気持ちなんて一生分からないし、気遣いをしてもらった事すら、一生知らないまま過ごす事になっちゃうんですよ。――もしかしたら相手は、その時。――花厳さんと同じような気持ちで居るかもしれないのに……」
桔流は、そこでひとつ区切ると、ようやっと顔を上げた。
次いで、花厳と視線を交えるなり、さらに紡ぐ。
「――そうやって、心の中の事を何も伝えないから、気遣ってる事も、気遣われてる事も、気付かれず気付けず――、お互いに隠しっぱなし。――だから、最後まで、すれ違い合って、悲しい終わりに辿り着いちゃうんです」
花厳は、そんな桔流の名を呼ぼうとした。
「……桔流く――」
「ねぇ。花厳さん」
しかし、桔流は、それを制した。
そして、花厳の金色の瞳を見据えながら続けた。
「花厳さんが選ぶ選択肢は、本当にそれでいいんですか? ――今回も、“相手を逃がす”っていう選択肢で、本当に合ってますか? ――花厳さんは、いいんですか? ――俺がこのまま……、花厳さんから逃げ切っちゃっても」
桔流の言葉に、花厳の心臓は大きく鼓動する。
そんな心臓を宥めながら、一度体勢を整えると、花厳は、ゆっくりと桔流の隣に腰かけた。
花厳が隣に腰かけると、桔流は再びシーツに視線を落とした。
ベッドに腰掛けながら、上半身を向い合せるようにした二人の距離は、どちらかが少しでも手を伸ばせばゼロになる。
そんな距離を敢えて保ちながら、花厳は、ゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「君は……、それで後悔しないのか。――君は、俺が伝えなければ、俺の気持ちは分からないと言ったけど、でも、今は、そうじゃないだろう。――君はもう、分かってるはずだよ。――今の俺が、君をどうしたいかなんて。――それとも、本当に検討もつかないのかい?」
桔流はそれに、視線を落したまま言った。
「――……どうでしょうね」
花厳は、そんな返答に苦笑し、小さく息を吐くと、真剣な面持ちで言った。
「――分からないのなら、尚の事」
「後悔しないかとか、――そんな、試してもない事の結果なんて、俺には分かりません」
そんな花厳の言葉を、桔流は再び遮るようにして言った。
「――後悔するかどうか、試さないでも、花厳さんには分かるんですか?」
「それは――」
花厳がそれに戸惑うようにすると、桔流は続ける。
「――分からないんですよね。 ――分かってたら、俺を大切にしたいって思ってくれる花厳さんは、俺が幸せになれる選択肢を教えてくれるはずですもんね」
「……うん。――そうだね」
「でも、花厳さんは、教えてくれなかった。――それは、花厳さんも未来が分からないから。――試してみないと、結果が分からないからです。――そうですよね」
「……うん。そう」
花厳は頷く。
「――なら、花厳さん」
そんな花厳の名を呼ぶと、桔流は顔を上げ、花厳を見た。
花厳もまた、その桔流と視線を交わす。
そのまま、桔流は紡ぐ。
「――花厳さんも、選んでください。――俺は、さっき選びましたから。――因みに、今回の選択は、凄く簡単ですよ。――今。花厳さんの目の前にある選択肢は、二つしかないですからね」
「“二つ”……?」
花厳が尋ねると、桔流は頷く。
「そう。二つです。――今。花厳さんの目の前にある選択肢は、俺を“逃がすか”――、“逃がさないか”――、の二つだけなんです。――因みにですけど、俺がさっき選んだのは、花厳さんに、この選択肢を“与える”――という選択肢です。――という事で、俺の番は終わりましたから、今度は花厳さんの番ですよ。――あ。ついでに言っておくと、この選択肢は時間制限付きなので、ちょっと急いでくださいね」
「えっ。時間制限?」
そんな桔流の言葉を真剣に聞いている中、ふと付け足された想定外の言葉に、花厳は首を傾げた。
すると、桔流はひとつ頷き、しばし真剣な面持ちで言った。
「はい。そうです。――実は俺……。今……。――ちょっと、眠いんですよ」
「………………え?」
花厳は、その桔流の言葉をすぐには理解できず、困惑した。
桔流は言う。
「いつも以上にお酒が入ってるからだと思うんですけど……、今の俺。このまま、ちょっとでも目ぇ閉じたら、即寝落ちできそうな感じなんです……。――だから、とっとと選んで、今のうちに目を覚まさせてくれないと……、――マジで……このまま寝ます」
そんな桔流の言葉に、花厳は、思わず小さく笑った。
また、そんなやりとりを機に、これまでしばし張りつめていた寝室の空気が、一気に軽くなったようにも感じられた。
その中、花厳は、桔流がこれまでの間も、ずっと眠気と戦ってくれていたのかと思い、その桔流に愛らしさも感じつつ、
「それは、申し訳ない事をしたな。頑張ってくれてありがとう。――早く選ぶね」
と言って笑うと、改めて桔流と向かい合い、言った。
「――じゃあ、俺も選ぶけど、――もし、嫌だと思ったら、ちゃんと言ってね。――すぐにやめるから」
桔流は、それにひとつ笑うと、楽しげに言った。
「ふふ。それ。よく言われますけど。――途中でやめられた人、見た事ないです」
その桔流の言葉に、花厳も笑う。
「ははは。それは仕方ないよ。――君みたいな美人さん相手に気持ちを抑えるのはひと苦労だろうからね。――でも、安心して」
そんな花厳は、そこでひとつ区切る。
そして、桔流の頬を優しく撫でると、微笑みながら続けた。
「――絶対にやめるから。――君は、俺にとって、心から大切にしたい人だ。――そんな君を、傷つけるなんてしたくないからね」
桔流は、その花厳の言葉にくすぐったそうに笑う。
「ふふ。――確かに、花厳さんなら、やめてくれそうです」
そして、そんな花厳に添えられた大きな手に頬を寄せると、
「――でも」
と、言った。
花厳が、それに不思議そうにすると、桔流はゆっくりと音を紡いだ。
「――やめないで、いいですから」
すると花厳は、少しばかり眉を上げると、愛おしげに苦笑して言った。
「それはまた……、凄い煽り文句だね」
桔流は、そんな花厳を上目遣いに見ては言う。
「だって、花厳さん。――これくらい言わないと、キスから先に進んでくれなさそうですし」
それに、さらに煽り立てられた花厳は、
「ははは。なるほど」
と、楽しげに笑うと、
「世話をかけるね――」
と続けた。
そして、桔流がそれに応じ、言葉を紡ごうとした時。
花厳がその身を寄せ、桔流にその言葉を呑みこませた。
桔流は、その不意の感触に、思わず短く息を吸った。
そうして、食むようにして触れ合わせるその唇の感触を味わう度――、なぞりあげるようにしてその舌を擦り付け合わせる感触を味わう度――、互いの理性は急速に脱力してゆく。
これまでにないほどに近い距離で互いの呼吸を感じ合う度――、互いの情欲は熱に浮かされてゆく。
ほんの数分の交り合いでも、瞬く間に脳は痺れ始め、五感からの刺激が、本能を覆う理性を荒々しく剥き上げてゆく。
そんな――、何をしても互いを掻き立ててしまうような初夜の熱に、彼らの心は、際限なく蕩けていった――。
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