テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
505
706
しずまる@Shizuku
キュッ、キュッ、とフロアに響くバッシュの摩擦音。バレーボールが床を叩く乾いた音が、放課後の体育館を支配している。
梟谷学園高校バレー部の練習は、いつだって主将・木兎光太郎の「ヘイヘイヘーイ!」という雄叫びから熱を帯びる。
「赤葦! 今のトス、もうちょい高く! ガツーンと打ちたい気分なんだ!」
「木兎さん、今はミート重視の練習です。高く上げすぎると打点がブレます。……今のまま打ってください」
「えー! ケチー!」
いつもの光景。
エースのわがままを淡々といなし、機械のように正確なトスを上げ続ける赤葦先輩。
私、成井留奈は、コートの隅でスコアブックをつけながら、その横顔を盗み見ていた。
(……やっぱり、すごいな。赤葦先輩のトスは、一瞬の迷いもない)
昨日の放課後、廊下でボタンを留め直してくれたあの指先。
今は白球に触れ、複雑な軌道を描いてエースの手に吸い込まれていく。
あの時、私の鎖骨に触れた同じ指だとは、到底信じられない。
「成井」
不意に名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。
見ると、給水のためにベンチへ戻ってきた赤葦先輩が、私の目の前に立っていた。
「あ、はい! ドリンク、どうぞ!」
「……ありがとう。それと、成井。……さっきから三回、ペンが止まってる」
「えっ……!?」
先輩はドリンクのボトルを受け取りながら、私の手元にあるスコアブックをじっと見つめた。
無機質な瞳。けれど、そこにはコート上のすべてを把握するセッター特有の、鋭い観察眼が宿っている。
「……ミスは困る。君が正確に記録してくれないと、俺の分析に狂いが出る」
「ご、ごめんなさい! ちょっと、考え事をしてて……」
「……考え事? バレー以外の?」
先輩が、わずかに首を傾げた。
その拍子に、額から一筋の汗が流れ落ち、彼の端正な輪郭をなぞる。
……昨日、あんなに近くで顔を見たからだなんて、口が裂けても言えない。
「いえ! 今日の夕飯、何かなって思ってただけです!」
「……そう。効率の悪い雑念だね。……でも、お腹が空いているなら仕方ないか」
先輩はふっと息を漏らすように、わずかに口角を上げた。
それは笑いというにはあまりに微かな変化だったけれど、私にとっては心臓を射抜かれるのに十分な破壊力があった。
「……あ、あ、赤葦先輩、笑った……?」
「……笑ってない。……それより、三組の男子がさっきからこっちを見てる。成井、知り合い?」
先輩の視線が、体育館の入り口で足を止めている他クラスの男子に向けられた。
確かに、以前ノートを貸したことのあるクラスメイトが、私に手を振っている。
「あ、はい! 同じクラスの……」
「……練習の邪魔だ。マネージャーに私用で接触するのは感心しない」
赤葦先輩はそう言い放つと、空になったボトルを私に手渡し、そのままコートへと戻っていった。
その背中はいつも通り冷静に見えたけれど、次に彼が上げたトスは、珍しく少しだけ低くて、木兎さんが「あかあしー! 低いぞー!」と叫ぶ声が響いた。
(……赤葦先輩、怒ってる……?)
理由がわからないまま、私は必死にペンを動かした。
けれど、私の頭の中は、先輩が最後に一瞬だけ見せた、冷たくて鋭い視線の残像でいっぱいだった。
完璧な司令塔。
感情を計算機のように制御するはずの赤葦京治。
その彼が、私の些細な対人関係に不快感を示したのだとしたら。
それは彼にとっての「計算外」であり、私にとっての「希望」になりうるのだろうか、、?
体育館の入り口に佇んでいた三組の男子生徒は、赤葦先輩の射抜くような視線に気づいたのか、バツが悪そうに足早に去っていった。
嵐が過ぎ去った後のような静寂が、私の周りだけを包み込む。けれど、コートの中では再び木兎さんの「ヘイヘイヘーイ!」という爆音が響き渡り、日常が回り始めていた。
(……赤葦先輩、さっきの目はなんだったんだろう)
ただの注意。マネージャーが部活中に私語を慎むようにという、副主将としての正論。
そう自分に言い聞かせても、スコアをつける指先がわずかに震えるのを止められなかった。
練習が終わったのは、時計の針が午後七時を回った頃だ。
「あー! 腹減った! 赤葦、肉! 肉食いに行こうぜ!」
「木兎さん、明日は朝練ですよ。今日は早く帰って休んでください」
「えー! ケチあかあしー!」
いつもの押し問答を繰り広げながら、部員たちが次々と更衣室へ消えていく。
私は一人、体育館に残されたボールをカゴに集め、モップを掛け始めた。
キュッ、キュッ、という乾いた音が、広い空間に虚しく響く。
「……成井。まだ残ってたのか」
不意に背後からかけられた声に、肩が跳ねた。
振り返ると、着替えを終えてカバンを肩にかけた赤葦先輩が、入り口ではなく、こちらに向かって歩いてくるところだった。
「あ、はい! あと少しで終わりますから。先輩こそ、木兎さんと帰ったんじゃ……」
「……あの人は木葉さんたちが捕まえてくれた。俺は、忘れ物。……それと」
先輩は私の手からモップをひょいと奪い取ると、無言でフロアを滑らせ始めた。
その動作は、バレーのトスと同じように洗練されていて、無駄がない。
「せ、先輩! いいですよ、私がやります!」
「……効率が悪い。二人でやった方が早く終わる。……それに、君に聞きたいことがあった」
先輩はモップを動かす手を止めず、前を向いたまま淡々と言った。
夕闇が迫る体育館の、高い窓から差し込む月光が、彼の端正な横顔を青白く照らし出している。
「……さっきの男子生徒。……本当に、ただのクラスメイト?」
「え……? はい。ノートを貸したお礼に、お菓子をくれるって言いに来ただけで……」
「……ノート。……君は、誰にでもそんなに親切にするのか」
先輩が、モップの手を止めてこちらを向いた。
無機質だと思っていた瞳の奥に、暗く、湿ったような熱が宿っている。
それは、司令塔としての冷静な観察眼ではなく、もっと泥臭くて、逃げ場のない「何か」だった。
「……俺は、計算できないことが嫌いだ。……特に、自分のコントロール下にない不確定要素は、排除したくなる」
「……不確定、要素……?」
「……君のことだよ、成井」
先輩が一歩、音もなく近づいてきた。
逃げようと思えば逃げられる距離。けれど、射すくめられたような視線に足がすくみ、呼吸の仕方を忘れてしまう。
「……君が他の誰かと笑っているのを見ると、俺の脳内にある戦術盤がぐちゃぐちゃになる。……トスの高さが狂う。集中力が削がれる。……これは、俺にとって最大の計算外だ」
先輩の手が、ゆっくりと伸びてくる。
昨日の放課後、ボタンを留めてくれたあの綺麗な指先が、今度は私の頬に、熱を帯びたまま触れた。
「……成井。……君に個人的な宿題を出す。……明日から、俺以外の男子と話す時は、俺の許可を得ること。……できる?」
「えっ……それって……」
「……非合理的だとは分かってる。……でも、そうしないと俺、次の試合で君をコートの外に出したくなるかもしれない。……自分でも、この感情に名前がつけられなくて困ってるんだ」
無表情のまま、けれどその指先は微かに震えていた。
完璧なセッターが、生まれて初めて「正解」の分からない問題に直面して、必死に答えを探しているような。
そんな、不器用で、一方的な独占欲。
「……返事は、明日まででいい。……帰るよ、成井。……暗いから、送る」
先輩は、私の返事を待たずに、私のカバンをひょいと持ち上げた。
その背中はいつも通り凛としていたけれど、夕闇に紛れた彼の耳の先が、微かに赤くなっているのを、私は確かに見た。
三時十五分のボタン。
そして、放課後の独占欲。
赤葦京治という完璧な歯車が、私という異物によって、音を立てて狂い始めていた。
コメント
1件
あかーし!!それは好きとゆう感情、そして独占欲だ!!