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図書室の重厚な木製の扉を、私は背後から何かに弾かれるようにして、なりふり構わず閉めた。
静まり返った廊下に、乾いた閉扉音が心臓の鼓動を急かすように響き渡る。
肺の奥が焼けるように熱い。酸素を求めて喘ぐ口元からは、白く震える吐息が漏れ出していた。
耳の奥には、今さっきまで至近距離で、逃げ場を塞ぐように注ぎ込まれていた、あの角名先輩の低く、粘りつくような「呪い」の囁きが、鼓膜に直接こびりついて離れない。
(……逃げなきゃ。……このままじゃ、本当に私、あの人の手で殺される……っ)
「愛」という美しい言葉で何重にも装飾された、底なしの、ドロりとした執着。
首筋に熱を持って刻み込まれた、あのいくつもの噛み跡や吸い跡が、今の私には、自分という「個」を焼き消そうとする消印のように感じられて、激しい嫌悪と吐き気がこみ上げた。
私は震える指先で、ポケットの中のスマートフォンの電源ボタンを、祈るような心地で長押しした。
暗転する画面。GPSで一歩一秒まで居場所を突き止められる恐怖。一分おきに届く「今どこ?」「誰といるの?」「何してるの?」という、慈悲のない監視のメッセージ。それらから逃れるための、これが私の精一杯の抵抗だった。
夕闇にじわじわと飲み込まれ始めた放課後の廊下を、私は全速力で駆け抜けた。
遠くから聞こえる部活動の威勢のいい掛け声も、教室から漏れる楽しげな笑い声も、今の私には、すべて角名先輩が私を捕らえるために差し向けた「追手の合図」のように聞こえて、一瞬たりとも足を止めることができない。
昇降口に辿り着き、乱暴に自分の靴を掴み取って履き替える。
校門の敷居を跨ぎさえすれば、そこは彼の「絶対的な領土」であるバレー部や図書室、そしてこの校舎という名の檻から外れた、自由な世界のはず。
そう自分に言い聞かせ、私は涙で霞む視界を必死に拭い、前だけを見据えて走り出した。
けれど。
「……ねぇ、紬。そんなに必死な顔して、どこ行くの? 俺、ここでずっと待ってたんだけど」
校門の、街灯が作る巨大な影の裂け目。
オレンジ色の灯りに照らされ、長く歪な影を地面に引き延ばして立っていたのは、練習に打ち込んでいるはずの角名倫太郎だった。
彼はジャージのポケットに片手を突っ込み、ひどく気だるげに、けれどその三白眼の奥に宿る光だけは、狙いを定めた獲物を決して逃がさない捕食者の鋭さで、私の存在を冷徹に射抜いていた。
「っ……、なんで、角名さん……練習は……っ! 北さんに、怒られちゃうよ……っ!」
「あぁ、そんなのどうでもいい。……それより君さ、スマホの電源切ったでしょ。……何、俺との繋がり、そんなボタン一つで簡単に断ち切れると思った? ……すげーショックなんだけど。……ねぇ、聞いてる?」
角名さんがゆっくりと、一歩、また一歩と、逃げ道を確実に潰しながら距離を詰めてくる。
アスファルトを叩く彼の足音が、私の死刑執行を告げるカウントダウンのように聞こえ、私は恐怖で膝が笑い、後ずさりすることさえ叶わなかった。
「……決別? 覚悟? ……笑わせないでよ。君にそんな勇気、最初からあるわけないじゃん。……だって君、俺に触られて、あんなに熱い声出して、俺のこと求めてたんだから」
彼は私の細い腕を、骨がミキミキと軋むほどの凄まじい力で掴み上げた。
逃げようとした反動で、私の身体が彼の硬い胸の中に、暴力的なまでの質量で強く押し付けられる。
鼻腔を突く、あの清潔でいて狂おしい、逃れようとしても脳裏に焼き付いて離れない、彼の体温の香り。
「……ねぇ、図書室で言ったよね。……逃げようとしたら、二度と歩けないように壊してでも、俺の部屋に閉じ込めるって。……本気にしてなかったの? 俺、君に関しては一度も冗談なんて言ったことないんだけど」
角名さんの瞳から、ついに人としての「光」が完全に消失した。
そこにあるのは、自分に従わない不遜な獲物を徹底的に蹂躙し、自分の色だけで、隅々まで塗り潰してしまおうとする、純粋で、濁った狂気。
「……今日から、一歩も外に出さなくていいようにしてあげる。……大丈夫だよ、紬。……俺だけが、君を死ぬまで愛してあげるから。……もう、何も考えなくていいよ」
彼は私の絶望的な悲鳴を、強引で、深い口づけで強引に塞ぎ、私の魂ごと吸い尽くそうとする。
攻略不可だったはずの境界線。
そこから始まった「好き」という名の物語は、今、最も歪で、最も残酷な形で「監禁」という名の終焉へと引き摺り込まれていった。
私は、彼の逞しい腕の中で、夕闇に静かに溶けていく校舎を、絶望と諦念の涙越しに、最後に見つめていた。
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