テラーノベル
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l 。 l 🏐
キュッ、キュッ、とフロアに響くシューズの音。
放課後の体育館は、いつもと変わらない熱気に包まれている。
けれど、ドリンクを補充する音も、スコアを書き留めるペンの音も、そこにはない。
マネージャー席にぽっかりと空いた空白が、今の稲荷崎高校バレー部における唯一の違和感だった。
「……あーあ。四ノ宮おらんと、なんか締まらんなぁ」
宮侑が、ボールを弄びながら独り言のように呟く。
北さんが「四ノ宮は体調不良や。しばらく休むって連絡があった」と静かに告げる。
誰も、その「連絡」が、本人の意志ではなく、横で無表情にサーブ練習をしている男によって偽造されたものだとは夢にも思っていない。
(……あは、みんなマヌケ。……信じ込んでるし)
角名倫太郎は、ネット越しに誰もいないマネージャー席を、一瞬だけ盗み見た。
そこにはもう、自分を怯えた目で見つめる紬も、震えながらカメラを構える紬もいない。
失って初めて、あの「レンズ越しの視線」さえも惜しくなるのではないかと、一瞬だけ脳裏をよぎったけれど。
(……いや、今のほうが、ずっといい)
彼が今、胸の内で反芻しているのは、練習中のメニューではなく、自分のマンションの一室——。
窓を完全に塞ぎ、外の光を一筋も通さない、あの「紬専用の檻」の光景だった。
そこには、俺のシャツ一枚だけを着せられて、ベッドの脚に繋がれた彼女が、泣き疲れて眠っているはずだ。
スマホを取り上げられ、友人とも家族とも連絡を断たれ、世界で唯一、俺という存在だけを頼りに生きるしかなくなった彼女。
「……角名。集中せえよ。……四ノ宮が心配なんか?」
銀島に声をかけられ、角名くんは「……別に」と、いつもの気だるげな声で返した。
嘘だ。
心配なんて、一ミリもしていない。
ただ、早く練習を切り上げて、あの部屋に帰りたい。
俺がドアを開けた瞬間、絶望に染まった瞳で俺を見上げ、それでも「角名さん……」と、縋るように俺の名前を呼ぶ彼女の声を、早く全身で浴びたい。
「……っ、」
サーブを打つ瞬間に、指先が微かに震える。
それは緊張ではなく、抑えきれない悦びの震えだった。
紬が部活から消えたことで、彼女の「体温」は今や、俺のプライベートな空間だけに凝縮されている。
誰にも見せない。誰にも触らせない。
彼女の呼吸の一つ、涙の一滴まで、すべて俺が管理する。
「……お疲れ様でした。……俺、今日用事あるんで、先に失礼します」
片付けを早々に終え、角名くんは部室を飛び出した。
夕闇に包まれた帰り道、彼は足早に、自分の獲物が待つ場所へと向かう。
攻略不可だった境界線。
それを自ら踏み越え、彼女を世界から隠してしまった彼は。
失った日常の代償として、自分だけの「永遠の所有物」を手に入れた。
「……ただいま、紬。……俺のこと、ずっと待ってた?」
暗い部屋の扉を開ける彼の顔には、この世で最も残酷で、最も深い、独占の微笑みが浮かんでいた。
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