テラーノベル
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朝の食卓には、いつも通りの温かな香りが満ちていた。
焼き魚の匂い、味噌汁の湯気、炊き立てのご飯。
けれどその中で、みことだけはまるで音のない世界にいるようだった。
ぼんやりと箸を持ちながら、ご飯を口に運ぶたびに、味がしない。
すちの声がまだ耳の奥に残っていて、何度も胸の奥で反響していた。
――「あー……うん」
その曖昧な肯定の声が、まるで何度もナイフで刺すように響く。
「……みこと」
隣から聞こえたいるまの声に、はっとして顔を上げた。
「大丈夫か?」
心配そうな表情に、みことは少しだけ笑って見せた。
「うん、大丈夫。寝不足かも」
それ以上、いるまは何も言わなかった。
ただその“無理してる”笑顔の裏に、何か大切なことを隠しているのを、彼はすぐに感じ取っていた。
母がふと話題を変える。
「そういえばお兄ちゃん達、沖縄楽しんでるのかしら? 電話とかしてるの?」
「うん!」
こさめが勢いよく手を上げた。
「らん兄に電話したよ! おみやげたくさん買ってきてって言った!」
「ふふ、こさめくんらしいわね」と母が微笑む。
「なつ兄からもかかってきた。海の写真とか送ってきた」
いるまも続けて穏やかに話した。
その流れで、自然と皆の視線がみことに向かう。
「みことは? すち兄とは話した?」
箸の先が、少し震えた。
みことは俯き、少しの間言葉を探す。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「……うん。昨日、電話した」
「そうなの? 元気だった?」
「……うん、元気そうだったよ」
少し間を置いて、みことはぽつりと呟いた。
「……彼女が、できたみたい」
瞬間、食卓が静まり返る。
箸を持ったまま固まる両親。
「……え?」
小さく声を上げるこさめ。
数秒の沈黙のあと、母がぱっと顔を明るくした。
「まぁ!すちに彼女!よかったじゃない!」
「そのまま結婚して孫ができちゃったりしてな!」
父も笑いながら冗談めかして言う。
「えー!気が早いわよ!」
食卓に笑いが戻っていく中で、みことは笑えなかった。
無理に口角を上げて「そうだね」と返したけれど、その笑みはどこか空っぽだった。
その様子を、いるまだけは黙って見つめていた。
――好きなんだろうな
そのことを、誰にも言わないまま、いるまはそっとため息をついた。
食卓の喧騒の中で、みことの心だけがぽつんと取り残されていた。
笑い声が遠くに聞こえる。
耳鳴りのように、すちの声と彼女という言葉が混ざり合い、胸の奥で痛みを繰り返していた。
午後の授業は、まるで遠い世界の出来事のように感じられた。
黒板に書かれる文字も、先生の声も、すべてが膜の向こう側で響いているようで、現実感がなかった。
みことの頭の中には、ずっと同じ言葉が繰り返し流れていた。
――「彼女が、できたみたい」
そして、昨晩の両親の笑顔。
「そのまま結婚して孫ができちゃったりしてな!」
明るいその声が、どうしてこんなに胸を締めつけるのだろう。
すちが笑っている姿を想像する。
隣にいる女の子の顔は知らないのに、笑う彼の横顔が浮かんでしまう。
そのたびに、胸の奥がじくじくと痛んだ。
「……俺、何してんだろ」
思わず小さく呟いた声は、誰にも聞こえなかった。
ノートの上には何も書かれていない。ページの端をぼんやり見つめながら、みことは自分の気持ちを整理しようとしていた。
いるまくんは、たぶんなつ兄と付き合ってる。
なつ兄のこと、好きなんだろうなって思う。
こさめちゃんも――あれは無自覚だけど、絶対らん兄が好き。
だって、あの笑顔、らん兄の前でしか見ないもん。
それなのに、自分までもが“兄が好き”なんて。
「……だめだよね、俺もちゃんと、前見なきゃ」
そう言い聞かせても、心はうまくついてこない。
頭では理解しているのに、胸の中の痛みは増えるばかりだった。
窓の外では夕焼けが校舎を染めていた。
気づけばチャイムが鳴り、周りの生徒が一斉に立ち上がる。
「……もう放課後?」
ノートを閉じる音さえ、遠く感じた。
帰り道、風が少し冷たくなってきていた。
制服の袖を握りしめながら歩く。
道端の花の色も、街のざわめきも、全部がぼやけて見えた。
気づいたら玄関の前に立っていた。
「……帰ってきたんだ」
靴を脱いで家に上がる。
両親の「おかえり」の声も、こさめの「みこちゃん!」という声も、
どこか現実味がなくて――ただ微笑んで「ただいま」と返した。
そのまま、自分の部屋へと足を運ぶ。
扉を閉めた瞬間、静寂が押し寄せた。
心の中にぽっかり空いた穴の音が、やっと聞こえた気がした。
観光地の賑わいの中、みんなが笑いながらお土産を選んでいる。
けれど、すちの手元のスマホはずっとロック画面のまま――みこととのトーク画面が映し出されては、すぐスリープに戻る。
「なぁすち、また弟に電話?マジでブラコンだな〜」
「お前の弟、もうすぐ高校生になるんだろ? ほっとけって」
からかい半分の声が飛ぶたび、すちは笑って流す。
けれど胸の奥がざわついて、無理に笑った唇の端が少し引きつった。
「……そうだよな、放っとくべきなんだろうけど… けど、もしまた、あいつが泣いてたら……」
そう口にしかけて、すちは息を飲む。
あれは“心配”なのか? それとも――。
「過保護すぎ、成長の機会を奪うなよ。ひとりで考える力もつけなきゃだろ」
冷静なクラスメイトの言葉が胸に刺さる。
たしかにその通りだ。
頭では分かっている。
けれど、胸の中の何かがそれを拒んでいた。
“あいつが他の誰かに頼るようになるのは、嫌だ。”
“俺のいない場所で、誰かに笑ってるのを見たくない。”
そこまで思ってしまって、すちは気づく。
――これは兄としての心配なんかじゃない。
夕陽に染まる窓の外を見つめながら、
すちは手の中のスマホをぎゅっと握りしめた。
みことの名前が光る画面に指を伸ばしかけ、
けれど通話ボタンには触れず、そのまま胸ポケットにしまい込む。
「……今は、我慢だ」
そう呟いて、すちは少しだけ目を伏せた。
心配と独占欲の狭間で、彼はまだ“兄”という仮面を外せずにいた。
薄暗い夕方の光が、カーテンの隙間から部屋に差し込んでいた。
机の上には開きっぱなしのノート。書きかけの文字が途中で止まり、インクが少し滲んでいる。
その前で、みことは床に座り込んでいた。
ぼんやりと、何を見るでもなく宙を見つめて。
コンコン――
……と、ノックの音はしない。
代わりにドアが静かに開き、いるまが顔を覗かせる。
「……よ…」
「…いるまくん」
名前を呼ぶ声は穏やかだったが、どこか遠い。
目が合うと、みことはいつものように笑ってみせた。
けれど――その笑みは、痛いほど“作りもの”だとすぐに分かった。
胸の奥がずきりと痛み、いるまは思わずみことのもとへ歩み寄る。
言葉よりも先に体が動き、気づけばその細い肩を抱きしめていた。
「……どうしたの?いるまくん」
みことの声は驚いていたけれど、抵抗はなかった。
ただ、小さく手を上げて、いるまの背中に触れる。
「どうしたのはお前だろ。……このままで良いのかよ」
耳元で低く囁く。
優しいけれど、怒っているようでもあった。
沈黙が落ちる。
時計の針の音がやけに大きく響く。
みことは俯いたまま、しばらく黙っていた。
目の前が滲んでいくのを、ただぼんやりと感じながら。
「……もう、良いんだよ」
ぽつりと、呟くようにそう言った。
その声は、笑っているようで――泣いているようでもあった。
いるまは、ただその言葉を聞きながら、腕の力を少しだけ強めた。
“良いわけねぇだろ”と心の中で呟きながら。
数分間、言葉もなく抱き合っていた。
部屋の時計が小さく秒を刻む音だけが響く。
みことの肩が、微かに震えていた。
けれど、涙は見せない。見せたら、きっと壊れてしまうから。
やがて、みことはゆっくりと腕の中から顔を上げた。
伏せたままの睫毛が、淡い光にかすかに揺れる。
「……いるまくん、」
「ん?」
「最後に……おまじないして」
掠れた声に、いるまは一瞬だけ息を止めた。
けれど、すぐに柔らかく微笑む。
「最後じゃなくても、いつでもしてやるよ」
そう言って、みことの髪をそっと撫でながら、額に口づけた。
次に、閉じたままの瞼へ。
そして、少しだけ触れるように頬へ。
そのたびに、みことの表情が少しずつ緩んでいく。
泣きそうな笑顔で、かすかに呟いた。
「……ありがとう」
沈黙の後、みことはふっと立ち上がり、布団へと向かった。
「…今日はお腹空いてないから……晩ご飯、いらないから…」
「……そっか」
いるまはその背中に何かを言いかけたが、言葉が出なかった。
みことは布団に潜り、背を向けたまま「おやすみ」とだけ呟いた。
その声は、まるで夢の中から聞こえてくるようにかすかだった。
いるまはしばらく、その小さな背中を見つめていた。
掛け布団の膨らみが、ほんの少し震えている。
それを見なかったことにして、静かにドアノブを握った。
――カチリ。
部屋を出る前、もう一度だけ振り返る。
「……無理すんなよ」
小さくそう呟いて、いるまはドアを閉めた。
コメント
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マジで投稿頻度が多くて毎日の栄養になってます!本当に感謝です!いっぱい投稿してくれるのは嬉しいんですけどyae様の体調や用事とかそっちもちゃんと優先してください!お身体に気をつけて、これからも書いてくれたら嬉しいです!いつもありがとうございます!!
みこぢゃぁん!!そうだねよ!ヤだよね!いっちゃん大好きなお兄ちゃん(好きな人)だもんね!後お父様ぁ、お母様なぜすちみこと言う尊い生物たちの恋に気付かないのでしょうか?何が孫じゃッッッッ!すちみこは2人だけで尊いんじゃぁぁぁ!!!