夜は更け、家の中は静まり返っていた。
遠くで虫の声がかすかに響き、時計の針が「カチ、カチ」と一定の音を刻む。
みことはふと、喉の渇きで目を覚ました。
寝返りを打つと、カーテンの隙間から月の光が差し込み、部屋の中に淡い影を落としている。
枕元の時計は深夜一時を少し回ったところだった。
静かに布団から抜け出し、足音を忍ばせながら廊下を歩く。
リビングの方からは、うっすらと光が漏れていた。
――まだ誰か起きてるのかな。
そう思いながらリビングのドアをそっと開けると、
そこには書類を広げ、パソコンに向かう父の姿があった。
読み込むように画面を見つめる横顔には、疲労と優しさが入り混じっている。
みことに気づいた父は、少し驚いたように顔を上げた。
「お、どうした。喉でも渇いたのか?」
みことはコクリとうなずき、コップを取り出して水を注いだ。
冷たい水が喉を通るたびに、少しずつ心が落ち着いていく。
父は席を立たず、やわらかな声で尋ねた。
「体調はどうだ? 無理してないか?」
「……うん、大丈夫」
みことはそう答えながら、コップを両手で包み込んだ。
少しの沈黙。
父が再びパソコンに目を戻そうとしたとき、
みことはその背中を見つめたまま、小さな声で言った。
「……父さん、話があるんだけど…」
その声音には、どこか決意のような強さが宿っていた。
父はマグカップを置き、みことの方を向いた。
「どうした?」
みことは少し呼吸を整えてから、はっきりとした声で言った。
「俺……外部の高校を受けたい」
父は目を瞬かせた。
予想していなかった言葉に、少しだけ表情が硬くなる。
「外部の、か。どうして?」
みことは視線を落とし、指先でコップの縁をなぞった。
「……今の中学の人たち、ほとんどがそのまま高等部に上がるから。 でも、俺は……もう、今のままじゃだめな気がする……。 事件のこともあったし、俺のこと……変な噂も流れた。 何も知らない場所で、また一からやり直したい…」
その声は震えていたが、嘘はひとつもなかった。
父は腕を組み、黙ってみことを見つめる。
やがて静かに息を吐き、問いを重ねた。
「行きたい学校は、どのあたりなんだ?」
「……少し遠くて…電車で一時間以上かかると思う。 だから、一人暮らししようと思って。バイトもしながら」
その言葉に、父の表情が曇った。
「一人暮らし、か……」
しばらく考え込んでいたが、やがて椅子の背にもたれて言った。
「高校進学のことは反対しない。ただな、みこと。 一人暮らしはまだ早い。心配だ」
みことは唇を噛み、うつむいた。
「でも、どうしても……」
「…じゃあ、こうしよう」
父は少し声を落として提案する。
「大学で家を出る予定の兄と一緒に住むんだ。 そうすれば、完全に一人ではないし、俺たちも安心できる」
みことは少しだけ考え、ぽつりと聞いた。
「……兄って、すち兄か、らん兄?」
「そうだ。すちとらんのどちらかだ」
みことは迷う素振りも見せずに答えた。
「……じゃあ、らん兄と暮らす」
父は少し意外そうに眉を上げた。
「すちとじゃなくていいのか? あいつ、お前のこと気にかけてるぞ」
みことは小さく笑い、けれどその笑みはどこか痛々しかった。
「すち兄は……俺を甘やかすから。
だから、らん兄の方がいいと思う」
本当は違った。
すちと一緒にいたら、きっと忘れられない。
顔を見るたび、胸の痛みが増してしまうから――。
沈黙が落ちる。
父はみことの瞳の奥を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「……わかった。受験のことは母さんと相談してみる。 でも、この話はまだ内緒にしておこう」
「うん……。誰にも言わないで」
「約束するよ」
そう言って父は立ち上がり、みことの頭を優しく撫でた。
大きな手の温もりに、みことは目を閉じた。
「頑張れよ、みこと」
「……うん」
その返事は小さく、夜の静寂に溶けていった。
みことはコップを流しに置き、月明かりの差す廊下をゆっくりと歩いて部屋へ戻る。
扉を閉めた瞬間、
胸の奥がチクリと痛んだ。
(……すち兄、ごめんね)
布団にもぐり、目を閉じる。
遠くで父のパソコンのキーを叩く音が微かに響いていた。
それが、まるで新しい一歩の始まりを告げる音のように聞こえた。
帰りの飛行機――。
機内には修学旅行を終えた生徒たちの明るい声が響いていた。
「楽しかったね」「また来たいな」
そんな会話があちこちで飛び交う中、すちは窓の外をぼんやりと眺めていた。
眼下には、青く輝く海と散りばめられた白い雲。
けれど、心の中にはどこか靄のようなものがかかっている。
(……みこと、今何してるかな)
気づけば考えてしまうのは、いつも弟のこと。
「元気かな」「ちゃんと寝てるかな」――そんな小さなことまで、つい気になってしまう。
「すちくん、隣、いい?」
声をかけてきたのは、期間限定の“彼女”だった。
彼女の笑顔は少し緊張していて、でも一生懸命さが伝わる。
「あ、うん。もちろん」
すちはすぐに席を譲り、隣に彼女が腰を下ろした。
離陸のアナウンスが流れ、エンジン音が低く唸る。
彼女は緊張をほぐすように、小さく笑いながら話しかけた。
「修学旅行、楽しかったね。…あの、これ、よかったら」
そう言って差し出したのは、小袋に入ったお菓子。
「沖縄限定の味なんだって。すちくん、甘いの好きかなって思って」
「ありがとう」
すちは微笑んで受け取り、一つを口に運んだ。
ほんのり塩味とバターの香りが広がる。
「うん、美味しい」
そう言って笑うと、彼女の顔がぱっと明るくなる。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ痛んだ。
――優しい子だ。
――ちゃんと、向き合わなきゃいけないのに。
ふと、隣からそっと手が伸びてきた。
彼女の指が、すちの手を握る。
驚くほど小さくて、少し冷たい手だった。
すちは一瞬ためらったが、その手を握り返した。
だが、指先が触れ合った瞬間、
脳裏に浮かんだのは――みことの顔だった。
「おめでとう」と震える声。
あの夜の通話が、鮮明に蘇る。
(……俺、何やってんだろ)
彼女の笑顔を壊したくない。
けれど、胸の奥のどこかが静かに悲鳴をあげている。
――この優しさは、誰のためのものなんだろう。
――本当に好きなのは、
彼女は嬉しそうに窓の外を指差した。
「見て、雲がすごいきれい」
「……ああ、そうだね」
すちは微笑みながらも、その目は少し遠くを見ていた。
繋いだ手の温もりが、どこか違う誰かのものに感じてしまう。
頭の中で、みことの声がこだまする。
『…おめでとう』
その言葉が、優しいのに痛い。
飛行機はゆっくりと高度を上げ、窓の外の景色が白一色に染まる。
すちは小さく息を吐いた。
(みこと……会いたいな)
だがその想いを口にすることはなく、
彼女の手を握りしめたまま、静かに空を見つめ続けた。
玄関の扉が開いた瞬間、家の中がぱっと明るくなった。
「お兄ちゃんたちが帰ってきたよー!」と母親の声が弾む。
最初に飛び出してきたのは、やっぱりこさめだった。
「らん兄〜〜!!!」
全力で駆け寄り、勢いよく飛びつく。らんはよろめきながらも、腕を広げて受け止めた。
「わっ、危ないって……!」
「おみやげ! おみやげ!!」
「……はいはい、ちゃんと買ってきたよ」
らんは苦笑しながら、紙袋からストラップやぬいぐるみを取り出して渡す。こさめは目を輝かせて跳ね回った。
ひまなつはその光景を微笑ましく見つめながら、手にした袋を差し出す。
「いるま、これ。シーサーのキーホルダー。紫の方がいるまっぽかったから」
「……ありがと」
いるまは照れくさそうに受け取り、指でなぞるように眺めた。
「…かわいい」
「だろ? 片方は俺が持ってる」
そう言ってひまなつは、もう片方のシーサーをポケットから見せた。
そのさりげないお揃いに、いるまはふっと笑みを零した。
そして――。
「みこと」
すちが優しい声で名前を呼んだ。
「これ、みことに」
差し出されたのは、ちんすこうの詰め合わせと、黄色いシーサーのキーホルダー。
「…ありがとう」
みことは穏やかに受け取り、柔らかく笑った。
――けれどその笑みは、どこか“線を引いた”ような静けさを帯びていた。
すちはその微妙な距離感に気づいた。
手を伸ばせば触れられる距離なのに、みことはわずかに下がる。
いつもなら嬉しそうにお礼を言って、少し照れた笑顔を見せるはずなのに。
今の彼は、まるで“よその人”のように穏やかすぎた。
「……どうしたの?」と尋ねかけようとしたが、 母親が「みんなご飯にするよー!」と声をかけ、会話は流れてしまった。
夕食の席。
食卓の上には、沖縄で買ってきた食材を使った料理が並ぶ。
家中に漂う香ばしい匂いと、賑やかな声。
兄たちが修学旅行の思い出を語り、家族の笑い声が響いた。
「海、めっちゃ綺麗だったよな」
「星もすごかったね」
「沖縄そば、うますぎたよな~!」
こさめは話を聞きながら、目を輝かせていた。
「いいなー! いいなー! あ、そうだ!」
ふと何かを思い出したように、ニヤリとすちに視線を向ける。
「ねぇすち兄、彼女できたってほんとー!? どんな子??」
フォークを持っていたすちの手が、ぴたりと止まる。
「え……いや、その……」
「ええー! やっぱりほんとなんだ! すちったらモテるのね!」と母親が微笑み、 父親まで「お、青春だなぁ」と笑う。
そして、みことが静かに口を開いた。
「…今度、紹介してね」
いつもと変わらない穏やかな笑顔――
けれどその目の奥には、ほんの僅かな翳りがあった。
すちは胸が締めつけられるような感覚に襲われる。
“期間限定”なんて軽い言葉を、今ここで言えるはずもなく。
ただ、みことの視線から逃げるように、曖昧に頷いた。
「……うん、そうだね」
その一言が、やけに重く響いた。
家族の笑い声が再び広がる中、
すちの胸の奥だけが静かに沈んでいった。
家の中は修学旅行帰りの土産話で賑わい、久しぶりに全員がそろった食卓の余韻がまだ残っていた。
笑い声が消え、部屋の灯りが一つ、また一つと落ちていく中、こさめがらんの部屋の扉を勢いよく開ける。
「らんにぃー! 一緒に寝よーっ!」
子どものように甘える声。
らんは少し呆れたように笑い、「はいはい」と言いながら、両腕を広げた。
「沢山ぎゅーしてやるからな」
そう言われて、こさめは嬉しそうに布団に潜り込み、彼の胸に顔を埋める。
その柔らかい笑い声が廊下の奥まで漏れていた。
隣の部屋では、ひまなつが黙っているまの手を引く。
「来て」
言葉少なにそう呟き、いるまを自室へと引っ張る。
何も言わずに従ういるま。
ドアが静かに閉まる音のあと、しばらくして、低く落ち着いた声と、安心したような笑いが混じった。
互いの体温で確かめ合うように、夜はゆっくりと更けていった。
そして、すちは自室のベッドの端に腰を下ろしていた。
みことの部屋の明かりがまだついているのが、廊下の隙間から見える。
声をかけるか迷って、何度も立ち上がっては座り直した。
胸の中のもやが晴れないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
そんな時だった。
ノックの音がして、静かにみことが入ってきた。
すちは驚いた顔をしたが、みことは微笑んで言った。
「……一緒に寝よ」
それは穏やかで、けれどどこか儚い声。
拒めるはずもなく、すちは頷いた。
「うん。おいで」
布団に入り、向かい合うように横たわる。
みことは何も言わず、そっとすちの胸に顔を埋めた。
すちの鼓動が耳元で響き、温かさが体の奥まで染みていく。
――最後の思い出がほしかっただけ。
みことはそう心の中で呟いた。
このぬくもり、匂い、抱きしめられる感覚。
全部を記憶に焼きつけたかった。
涙が滲むけれど、見つかるのが怖くて、強く瞼を閉じた。
すちはそんなみことの小さな肩を抱き寄せ、何も言わずに髪を撫でた。
互いの呼吸が重なり、やがて静かな寝息だけが部屋に満ちる。
その夜、みことは心の中で何度も「さよなら」と呟きながら、すちの胸の中で眠りに落ちた。
コメント
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なぁんでぇだぁよぉッ!!!みこちゃん!!『期間限定』だからね!ちゃんとすっちーはみこちゃんBIGLOVEだからね!!だからこれからもすちみこで寝てよぉぉぉぉ