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深冬芽以
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あの嵐のような夜から、一ヶ月が経った。
東京タワーから見上げた朝焼けは、今も私の網膜に焼き付いている。
政府の陰謀は、美波が放流した機密データと、結衣が裏で手を回した海外メディアの圧力によって
「パンドラ・プロジェクトに関与した一部官僚の暴走」という形で幕引きが図られた。
私たちは、名前を変えた。
今は、かつての療養所にほど近い、潮騒が心地よく響く小さな町の一軒家で暮らしている。
「お姉ちゃん、朝ごはんできたよ!」
蓮の明るい声が、キッチンから響く。
彼はこの町の中学校に通い始め、驚くほど馴染んでいた。
美波は海外へと渡り、結衣は相変わらずどこかで新しい「脚本」を練っているらしい。
私は、窓際に置かれた木製の机に向かう。
そこには、一冊の真っ白なノートと、一本の万年筆。
私の喉は、あの夜
全人類の意識を浄化するために全力を出し切った代償として、物理的に「音」を出す機能を完全に失った。
医師からは、奇跡でも起きない限り、二度と囁くことすらできないだろうと言われている。
(……でも、寂しくはないよ)
私はペンを取り、紙の上に文字を滑らせる。
私の指先から紡がれる言葉は、もはやネットワークをハッキングすることも、誰かの脳を書き換えることもない。
ただ、インクが紙に染み込んでいくだけの、静かな営み。
【今日は、とても穏やかな風が吹いている】
そう書き記したとき、背後で扉が開く音がした。
「……栞さん」
振り返ると、そこには買い物袋を下げた九条さんが立っていた。
彼の右目には、深い傷跡を隠すための眼帯が当てられている。
パンドラの残滓は消え
彼は今、この町の小さな警備会社で、ごく普通の「一人の男」として働いている。
九条さんは私の隣に座り、書きかけのノートを覗き込んで、ふっと目を細めた。
「いい言葉だね。……君が書く言葉は、声よりもずっと深く、僕の心に届くよ」
九条さんは、私の左手をそっと握りしめた。
彼の体温が伝わってくる。
記憶を失い、感情を奪われ、それでも何度も私の手を見つけ出してくれた、この大きな手。
私はノートの続きを書き込む。
【九条さん。私、物語を書いてみたい。パンドラのことも、お母さんのことも、私たちがここで生きていることも。全部】
「……ああ。君にしか書けない物語だ。世界中の人が、君の『新しい声』を待っているはずだよ」
九条さんはそう言うと、私の額に優しく口づけをした。
10年前、熱湯と共に奪われた私の未来。
父が歪め、国家が利用しようとした私の運命。
それらはすべて、この静かな渚の音の中に溶けていった。
私は窓の外、キラキラと輝く海を見つめる。
声は、もういらない。
私は、この指先から生まれる新しい「歌」で、これからを綴っていこう。