「ただいま〜」
自分が持っている高学年向けの最後のレッスンの後、大会用に自分のレッスンもクタクタになるまでやってから家に帰ると、カレーの匂いがした。
鍋の前で律儀に具をかき混ぜる、阿部ちゃんが真剣な表情で何やら考え込んでいる。
「どうした?」
「あ。佐久間。帰ってたの?」
「いや、俺、ただいまって言ったよ?」
後ろからぎゅうっと抱き締めると、ごめんごめんと阿部ちゃんが笑う。
「で?どうした??」
「んーとね。ちょっと作りすぎちゃったかなって。てへ?」
顎のあたりに軽く握った拳をあてて、首を傾げる可愛さに、俺は一日中踊った疲れもなんのその、カラダごと溶けていくような気がする。
「へーき。俺、カレーだぁいすき♡」
「よかったぁ♡♡」
実は阿部ちゃんが作るカレーはかなり辛く、続けて食べると味覚だけではなく各方面に被害があるのだが、それは今は黙っておく。
阿部ちゃんの笑顔を守れるのは俺しかいない、うん。
「今日はね、いつもよりデスソース多めに入れてみたぁ♡」
そう言って、まるでアイドルがCMでやるみたいに、おどろおどろしいドクロのマークの瓶を顔のあたりまで持って来てにこにこしている。
ここのところ、カレーライスの研究に余念がない阿部ちゃんは、毎日彼なりにあれやこれやと工夫をしているのだ。
どうしてそんなにカレーにハマってるの?と聞いたことがある。
阿部ちゃんは、
「だって毎日結構時間が余るし…。佐久間だけ働いてるの申し訳ないでしょ?だから、少しでも佐久間を喜ばせてあげたくて…」
と、満面の笑顔で答えた。
そう。
阿部ちゃんは働いていない。
それどころか、働く気すらなくしてしまっているようだった。
◇◆◇◆
1年前。
かなりいい会社で順風満帆なエリートコースを歩んでいるとばかり思っていた阿部ちゃんから、分厚い封筒がいきなり届いた。
中にはたくさんの写真と、長い長い手紙。
そこには、色んな土地を回ったという各地での旅行記のような感想文と、最後に一筆。
『東京に帰るから、しばらく置いて欲しい』
と、書いてあった。
沖縄で背の高い若い筋肉質の男と笑顔でツーショットで写る写真を見ながら、胸がちくりと痛むのを感じた。
「へぇ、佐久間。結構いいとこ住んでるんだねぇ♡」
初めて部屋に通した時、きょろきょろと物珍しげに家の中を見渡す阿部ちゃんは、口調は明るいのに、どこかなんだか疲れ果てて見えた。
「それにしても急に俺に連絡なんて…。どうしたの?」
「んー?んふふふふ」
阿部ちゃんは意味深に笑うと、俺の腰に細い腕を回した。
「ねぇ、佐久間ってさ、俺のこと、好きだったでしょ?それって……今も?」
口角が上がり、小さな口元が微笑むのを夢のような気分で見ていた。
高校時代、そう、もうあれは15年以上前のことだ。
俺は阿部ちゃんに告白して、フラれたことがある。
自分なりに悩んだ結果、後悔したくないと踏み切って言った気持ちを、阿部ちゃんは申し訳なさそうにこう断ったのだ。
『ごめん、俺、今彼氏いるから』
彼女でなく彼氏だったことにまず驚いて、その後にやっとフラれたと気づいた。
まだガキだった俺は、それから1年半以上、阿部ちゃんを遠ざけて、そしてその距離は縮むことのないまま、卒業を迎えた。
それから次に会ったのは同窓会の時。
窮屈そうなスーツに身を包み、どこか上辺で笑っているような阿部ちゃんを見掛けて目を離せないでいると、向こうから声を掛けてきた。
『佐久間。久しぶり』
『あ。うん、久しぶり』
成績も良く人気者だった阿部ちゃんのことだ、大した挫折も味合わずに、大きな企業に入って、好きな仕事をしてるとばかり思っていた。彼は俺の中では、常に人生の成功者だったから。
しかし、阿部ちゃんは、俺に思いつく限りの褒め言葉を遮るよう、言った。
『……佐久間なら、ひょっとしてって、思ったんだけどな』
『え?』
阿部ちゃんは寂しそうに笑うと、そのまま別のテーブルへと行ってしまった。
それからの、この手紙。
阿部ちゃんの中で、何か辛いことがあったのは想像できた。
でもそれが具体的に何だったのか、仕事上のことなのか、プライベートでの躓きなのかはとうとう分からずじまいだった。
阿部ちゃんは小さなボストンバックと、着の身着のままで我が家へとやって来ると、2、3日泊めてと言って、毎日だらだらと過ごしていた。
それから1年。
こうして今でも一緒に暮らしている。
「さくまー。手伝って」
鍋の火を止めると、阿部ちゃんはベランダに出て、洗濯物を取り込み始めた。もう夜の8時過ぎだというのに、カレーに夢中できっと忘れていたのだろう。ベランダからほいほい渡される洗濯物はどれも湿っていた。
「今日は何してたの?」
「うんとね、洗濯してから二度寝して、起きたのはお昼前くらいで、それからずっと水槽の亀を見てたらお腹空いたから適当に食べて、スーパー行って、今ココ」
初めの頃は、もうちょっとマシな一日を過ごしていた気がする阿部ちゃんは、にこにこと悪びれもせず、特に変化のない平和な一日を報告した。
「洗濯ありがとう」
「どういたしまして」
にっこり笑って服を畳む阿部ちゃんが可愛くて、和む。今はもう、ここまでとか、これからとか、彼にまつわる過去や未来を詮索する気も失せていた。
贅沢はできないけれど、大好きな人と暮らしている、それだけでなんだか満たされている気がするのだ。
◇◆◇◆
「ねぇ、佐久間。もう少し、お尻上げて」
「こう?……んっ!あぁっ……やっ…」
阿部ちゃんの硬くて大きなものが、俺の中を容赦なく抉っている。
初めはゆっくり馴らしてから、なんて考えは阿部ちゃんにはないらしく、可愛い顔に似合わず、いつもセックスは激しい。
慣れない頃は痛くて辛くて、それでも腰の動きを緩めない阿部ちゃんのせいで何度も怪我をした。それでも阿部ちゃんに抱きしめられて、耳元で、だって、佐久間が良すぎるからと言われてしまえば、ついつい許してしまう。
「はぁー」
事後に、一本だけ、阿部ちゃんはいつも煙草を吸う。
紫色の煙を吐く、阿部ちゃんはカッコよかった。真似して吸ってみても、俺はちっともサマにならない。あれは、阿部ちゃんの細くて芸術的に美しい指があってこそ映えるのだと思った。
「佐久間」
今夜は満月だ。
窓辺で、月を見上げる阿部ちゃんは綺麗だった。上裸のまま空を仰ぎながら、気怠そうに俺を見つめた。
「俺、佐久間のこと、好きだよ」
「え………」
初めてだった。
この1年、阿部ちゃんは俺について言及してこなかったから。
涙が出るほど嬉しかった。
「俺とずっと一緒にいてくれる…?」
俺は上擦ったその勢いで、つい、そんなことを言ってしまった。阿部ちゃんは困ったように笑うと、また紫色の煙を吐いた。
おわり。
コメント
12件
💚🩷ーーーー!!!!! しかも貴重なヒモ💚…🥺そうなんだよなぁ、💚がヒモになる選択肢って疲弊とかになるよね。 800ストーリー目に癖に刺さる💚書いてくれてありがと🫶
あべさくだ(T-T) 最近あべさくに沼りまして💖 旅スノまだみれてないけどあべさくって知ったとき めっちゃ叫んでしまいました笑 今回のお話も最高でした!!

あっちでもこっちでも 💚🩷が書かれている!! まきぴよさんまで!🤣 あ〜、目の奥が笑ってないような、胸の内をさらけ出さないような、そんなブラック💚良いです〜