コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「それならよかった。毎日仕事のしすぎだよね。誠って、仕事に関しては真面目だよね」
つい、嫌味のような言い方になってしまい、私はそこで口をつぐんだ。
すると、誠も少しムッとしたように、言い返してくる。
「なんだよ、“仕事に関しては”って。それ以外は最低みたいじゃないか」
軽く睨まれた私は、思わず言い返したくなって、さらに言葉を重ねた。
「だってそうでしょ? いつか女の人に刺されないようにね。世の中には怖い人、いっぱいいるのよ」
誠は苦笑し、肩をすくめるように息を吐いた。
「莉乃の中で、俺ってどんなイメージなんだよ」
「そのまんまのイメージ」
寄ってくる女の人を拒まず、軽く付き合っては、すぐ終わらせる――
そんな印象が、長い間私の中にはあった。
「そういうお前は?」
「えっ?」
不意に矛先を向けられ、私は戸惑いつつ、反射的に答えていた。
「真面目に付き合った男とか、いるの?」
その探るような視線に、居心地の悪さを覚えながらも、私は口を開いた。
「私はいつも真面目に付き合ってたよ。でも……今は恋愛とか、そういうのはもういいかなって思ってる。ひとりで生きていくための準備をしてるだけ」
私の言葉に、誠は驚いたような表情を見せる。
すっぱりと言い切ったその勢いに、自分でも少し後悔していた。
「どうして?」
その問いがくることは予想していたのに、少し胸が苦しくなる。
でも、誠になら……少しだけ、話してもいいかもしれない――
そう思って、私はゆっくりと言葉を選んだ。
「……男の人を、信用できないから。深く付き合うことが怖い。どこかで変わってしまうんじゃないかって……」
心の奥に沈めていた記憶が、ふわりと浮かび上がってくる。
黒い感情が胸を覆い始める前に、私は思考を止めた。
「何があった? お前が、会社であの恰好をしてる理由も、それか?」
誠の声に、私はピタリと動きを止める。
ギュッと唇を噛んで、気がつけばカップを強く握りしめていた。
その手からカップをそっと取り上げ、誠はローテーブルに置いた。
「……無理に話さなくていい。でも、そんなに握りしめるな。爪の痕、ついてるぞ」
そう言って、誠が私の手を優しく開いてくれる。
じんわりと痛みが戻り、爪の痕がくっきり残っているのに気づいた。
「昔……少しだけね。嫌なことがあったの。元カレから逃げてた。同じ大学だったから、職場も知ってて……見つからないように、家も携帯も変えた。でも、せっかく受かった会社だったから、辞めたくなかったの」
うまく説明できた自信はない。けれど、誠のまなざしは真剣で、ちゃんと私の言葉を受け止めてくれているようだった。
「今は大丈夫なのか?」
「たぶん……大丈夫だと思う」
はっきりとは言えない。けれど、信じたい。
「ごめんね、湿っぽい話になって……」
無理に明るく言っても、きちんと笑えている気がしなかった。
そんな私の表情を見た誠が、ぽつりと呟く。
「そんな莉乃にとって、俺は……最低な男だろうな。近くにいて、ごめん」
真っ直ぐなその言葉に、私は戸惑う。
前なら、きっとそう思っていた。
でも、今は――違う。
「前は、そう思ってた。でもね、今は思ってないよ。じゃなきゃ……泊めないよ」
私の言葉に、誠がほっとしたように笑った。
でも、そのあとすぐ、真顔で私を見つめる。
「莉乃、まだ無理してるだろ? 笑顔が、引きつってる」
「……え?」
言われてみれば、たしかに胸の奥ではまだざわざわと何かが残っていた。
そんな私の表情に気づいた誠が、そっと――私を抱きしめてきた。
「悪い、つい……今、信用してもらったばかりなのに」
慌てて離れようとするその腕を、私はぎゅっと握った。
「……大丈夫。落ち着くから」
言葉ではごまかしても、あのぬくもりは確かだった。
ずっと忘れていた、誰かに守られているという感覚が、胸の奥に染み渡っていく。
私の言葉に、誠は何も言わず、もう一度そっと力をこめて抱きしめてくれた。
――
しばらく無言のまま、ふたりの間にはぬくもりだけがあった。
でも、やがて私はその距離をそっと取る。
「ありがとう。もう大丈夫……ダメだね、思い出すと、まだ」
髪を耳にかけながら、私は早口で言葉を重ねた。
「無理することなんてないよ」
誠のその優しい声に、胸の奥がふっと軽くなる。
「ありがとう」
その言葉は、自然に、心からこぼれ落ちていた。
誠も、静かに笑ってくれる。
「なあ、莉乃。一度、着替えたいから俺の家に寄ってもいい?」
空気を変えるようなその一言に、私は救われた気がした。
「もちろん」
その後、用意をすますと誠の車に乗り込んだ。
「本当にすごい車だね」
私はふわふわのシートと高級そうな内装を見回した後、外の景色をぼんやりと眺めていた。
さっきの元カレの話を誰かにするつもりはなかった。
しかし、誠になら聞いて欲しい。そんな気持ちを持ってしまった。
車はおよそ20分ほど走ったところで、静かに誠のマンションの駐車場へと入っていった。
私は、慣れた様子でコンシェルジュに挨拶をする誠の後ろで軽く会釈し、後に続く。
「適当にリビングで待ってて。着替えてくるから」
「うん」
前回訪れたときは寝室しか入らなかったが、予想通り広々としたリビングには、高級な家具が整然と並んでいた。
大きな窓の外には、東京の街が鮮やかに広がっている。
ほどなくして、誠が戻ってきたことに気づいた私は、振り返りながら部屋の中を見渡した。
「本当に生活してるのよね? まったく生活感がないけど」
苦笑混じりにそう言えば、誠は少しばつの悪そうな表情を浮かべる。
「まあ、寝るだけだからな」
整然としたキッチンにも、使われた形跡はほとんどない。
この部屋は、文字どおり“寝るための場所”なのだろう。
「忙しいもんね」
そう言って同意すると、誠は少し思案するように目線を窓の外へと向けた。
「莉乃、何か食べたいものある?」
「誠は?」
正直、まだそれほどお腹が空いているわけでもなく、食べたいものも思い浮かばなかった。
「朝、久しぶりにちゃんと食べたから、俺もあまり……」
「私も」
そう返せば、誠は外を見つめながらぽつりと提案した。
「天気もいいし、このあたりをぶらぶらしながら考えるか」
その言葉に私も頷いた。
春の陽気が心地よく、散歩にはもってこいの日和だ。
誠のマンションの周りには、センスのいいカフェや飲食店、ショップ、公園が点在していた。
私たちはその中の一つ、大通りに面した広い公園へと足を向ける。
緑の木々がそよ風に揺れ、空気は澄んでいて、街の喧騒から少し離れたこの場所はまるで別世界のようだった。
「ゆったりした休日って、うれしいね」
「そうだな。俺も久しぶりだ」
いつもよりもリラックスした誠の表情に、私の気持ちも自然と和らいでいく。
「……誠、ありがとう」
「何が?」
いきなりお礼を言われた誠は、少し驚いたようにきょとんとした表情を浮かべた。
「本当に久しぶりなの。こんなふうに、安心して外を歩けるのって」
私は自分の気持ちを誠に伝えようと、少しずつ言葉を紡いでいく。
「いつも、元カレがどこかにいるんじゃないかって思って、周りを気にしてた。
本当は公園でのんびり読書したり、カフェでランチしたかったんだ」
一瞬の静寂。
自分でも、こんなことを言うつもりではなかった――と、思い始めた時。
ふと誠の表情を盗み見れば、そこには少し真剣な面持ちの彼がいた。
やっぱり、重たかったかな……
後悔の気持ちが湧き上がりかけたその時――
誠が、ゆっくりと私を見た。
「俺でよければ、いつでも付き合うよ。テイクアウトして、本屋にも寄って、莉乃のしたいことをしよう」
優しい声音と柔らかな表情に、私はなぜか涙がこぼれそうになる。
――きっとずっと、誰かにこんなふうに言ってほしかったのかもしれない。
「誠……それでいいの?」
「ああ、いいよ」
ポン、と優しく私の頭に触れたあと、誠は歩き出して、振り返る。
「莉乃、行こう」
差し出されたその手を、私はそっと、少しだけ躊躇しながら取った。
この手を離せなくなりそうで、それが少しだけ怖かった。
――誰にでも優しい誠。
今は、私の境遇に同情してくれているだけ……?
でも、この笑顔は仕事中の、あの嘘くさい笑顔とは違うよね。
少しだけ、誠も私に心を開いてくれているのかな……?
私はそんな想いを胸に、握った手にそっと力を込めた。
* * *
二人で訪れた本屋では、私は読みたかった文庫と雑誌を購入した。
誠はと言えば、経済系の雑誌を数冊手にしていて、「やっぱり仕事熱心だな」と思わずクスッと笑みがこぼれる。
併設されたカフェでサンドイッチとコーヒーをテイクアウトし、再び公園へと戻った私たちは、ベンチに並んでゆったりとしたランチを楽しんだ。
「今週ずっと一緒だね」
雑誌をペラペラとめくりながら、つい口にした自分の言葉に、私はハッとする。
誠はこの言葉を、どう受け止めるのだろう?
「……そうだな」
不安になって隣をそっと覗き見ると、誠は穏やかな笑みを浮かべていてくれて、私はほっと胸をなでおろした。
まったく予想外の展開だったけれど――
誠と私は、意外にも趣味も時間の使い方も似ていて、無理せず一緒にいられた。
自分を偽ることも、飾ることもせずにいられる時間が、こんなにも心地いいものだったなんて――私は、初めて気づいたのかもしれない。
そんな空気を壊してしまいそうだと思いつつ、私は口を開いた。
「……この景色、すごくきれいだよね。前から一度行ってみたかったんだ」
本の中で見かけた、コバルトブルーの海、緑の丘を回る風車、そしてゆったりと進む観光船――そんな場所。
すると、誠が静かに答えた。
「……いつか、一緒に行けるといいな」
その言葉に、私はドキッとしてしまう。
そして、すぐに慌てた様子で否定しようとする誠の姿に、なぜか胸がチクリと痛んだ。
「……冗談だった?」
ぽろりとこぼれたその言葉は、まるで「一緒に行きたい」と言っているようなものだった。
――それが本心だったけれど。
「……あっ、そうだよね」
慌てて取り繕おうとした私の目に、少し揺れた誠の瞳が映る。
「……いや、いつか行こう」
それは“友人として”の言葉? それとも――
けれど今は、これ以上は何も聞けなかった。ただ、静かに、私たちは見つめ合っていた。
そんな空気を壊すように、誠は私の頭をポンと軽く叩いた。
「それより、昼飯足りたか? 何か買ってこようか?」
「ううん、大丈夫。本当に……こんなゆったりとした時間、久しぶりで。幸せ」
緑に視線を向けて、大きく息を吸いこむ。
そして隣に誠がいるという安心感は、何ものにも代えがたい気がした。
「そうか。――会社にいるときも、俺はいつでもそばにいるよ。これからは、無理するなよ」
「……ありがとう」
その言葉が嬉しくて、素直に声がこぼれた。
「約束だ。絶対に、何かあったら俺に言え。いいな」
心からの言葉――そう感じられる瞳に、私はゆっくりと頷いた。
その瞬間、そっと誠に抱き寄せられる。
ドキッとしつつも、その温かいぬくもりが、胸の奥まで沁みてくる。
気づけば、ぽろりと涙が頬をつたっていた。
――寄りかかっていいと言ってくれる人がいる。
――頼っていいと言ってくれる人がいる。
その事実が、たまらなく嬉しかった。
それが、たとえどういう関係であっても。
私の涙を、誠がそっと指で拭ってくれる。
そしてもう一度、さっきよりも少しだけ強く、私を抱きしめてくれた。
「……もう少しだけ」
上から響いたその声に、誠の気持ちは読み取れなかったけれど、私も自然と、彼の背中に手を回していた。
* * *
その後、私たちはぶらぶらと買い物をして、誠に送られてマンションへと戻ってきた。
「楽しかった。ありがとう」
ドアノブに手をかけながら名残惜しく言えば、誠がやわらかく頷いた。
「莉乃、いつでも……何かあれば連絡しろよ」
その優しさが、胸にしみる。
小さく手を振って車から降り、ドアを閉めると、誠が助手席の窓を下ろしてくれた。
「……誠」
つい、呼びかけてしまう。
けれどすぐに我に返って、慌てて口を閉じた。
「どうした?」
優しく響いた声に、また涙がこぼれそうになり、私は笑顔を作ってごまかす。
「……なんでもない。おやすみ」
それだけを言って、私は泣きそうな自分を悟られないようにエントランスへと足を踏み入れた。
エレベーターの中で、いつの間にかこぼれていた涙を、そっと拭う。
部屋に入った私は、そのままリビングに駆け込む。
急に込み上げてきた気持ちに、どうしようもなく動揺していた。
「あーあ……好きになっちゃったじゃない……」
どうしようもない、この思い。
――恋愛なんて、二度としないって決めてたのに。
どうして、こんなことになっちゃったんだろう。
ずるずると床に座り込むと、私はしばらくの間、放心していた。
男なんて信用できない。信用しちゃダメ。
そう言い聞かせても――もう、気づいてしまった気持ちは、どうにもできなかった。