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閉じた扉の向こうで、美蘭は笑顔で手を振っていた。もうそこに彼はいないというのに、しばらくそうしていた。十秒ほどして、ようやく目を覚ましたようで。自分に暗示するよう両頬を叩く。「よし……」と呟くと振り返り、リビングの方へ戻っていった。
伸びた足と共に座るソファ。膝の上に置かれたアイスブルーのノートパソコンには、先日撮影した動画の編集場面がある。呑気に口笛を吹きながら、そのリズムに乗ってタイピングを行う。その動作は何とも軽快で、並の主婦に同じ事は出来ないろう。部屋に流れるジャズ。この優雅な時で作られる動画が、何万という金に変わるのだ。これほどまでに、素晴らしい稼ぎ方も無い。
「熱っ……!」
マグカップに唇を当てながらそう言った。入れたばかりのコンポタージュは、猫舌の美蘭が飲むにはまだ熱すぎたようだ。一度パソコンをローテブルの上に戻し、再びマグカップに唇を寄せる。
ただし次は、入念に入念を重ねて、何度も、そう何度もふーふーと風を送っておく。今度こそはと、それを遂に口にした彼女は、そのまろやかな甘さと温もりに口角を上げる。
白い天井には染みの一つもない。今は仮住まいだが、いつかは二人の貯まった稼ぎで家を買って、犬でも猫でもハムスターでも、何かペットを育てて。仕事から彼が帰ってきたらペットと二人で迎える。夕食にはイタリアンなんかを作っちゃったりして。いつものように、変わらず笑って皿をつつく。それで、それで……。
「子供……か」
そうして美蘭が素敵な妄想に浸っていたその時だ。行動を促すように目覚ましアラームが鳴り響いた。赤のスマートフォン。プライベート用のものだ。彼女から笑みが消え、不満げで気怠げな顔になる。
「あー、やだなぁ」
そう言いながらも、アラームを止めると、上着を羽織って外出の準備を始めた。メイクは済んでいるし、服装だって問題ない。準備万端。スニーカーを履いて、扉を開ける。
「いってきます」
とうとう誰もいなくなった家で、ローテブルの上の白いスマートフォンは震えていた。