カラン、と音を立ててグラスの中の氷が揺れる。注文したばかりの強い酒は、一度口をつけただけで放置してしまった。彼が来ないのでは、この酒に意味などないのだから。
「飲まないんですか?」
すっかり馴染みになったバーテンダーがこちらを見て問う。まだ若いその子犬のような瞳が私を映す。ああ、変に勘繰られる前に言い訳をしなくては。
「…彼を、待っているの」
彼との関係が終わりに近付いていることは、私が1番わかっている。だから、終わりにしましょう とそう言うつもりでこの場所をメッセージアプリに送った。
昔2人でよくやった謎かけを1つ。
私が送ったそれを、彼はきっと解いてくれるとどこかに期待してここで待っているが、彼はもうとっくに謎かけのことは忘れてしまって、私だけが過去に囚われているのだろうか。
グラスの中の氷は更に小さくなっている。ああ、薄まってしまえば効果などないというのに。酒に呑まれて、全てを忘れてしまう為のものなのに。
酒の中でキラリと光を反射させている氷は、彼に好かれようと自分を高めて輝いていたかつての私に似ている気がした。いつか溶けて輝きは失せてしまうというのに、いつまでも幸せが続くものだと根拠もなく信じ込んでいた私は、溶けていることに気付かない氷と同じ。
グラスに添えた私の指先は、どこか怯えているように見えた。ダークブラウンに染めた髪の隙間から見えるそれを誤魔化すようにもう一口、グラスに注がれた液体を流し込む。まだ飲み干すわけにはいかない。彼と会話した事実は鮮明に残していたい。たとえそれが最後のものであったとしても。ただ──その先は酩酊の夢に溺れて、無かったことにしてしまえるように。
カラン、とドアのベルが鳴る。少し息をあげた彼がそこに立っている。その事実に少しだけ心が浮き立ってしまうのは、先に口にしたアルコールのせいだと思いたい。
「…遅くなってすまない」
ええ本当に。氷はもうせっかくのお酒を薄めてしまっている。
隣に腰掛ける彼が私と同じくらい強い酒を頼んだことがわかった。きっと彼も、同じことを考えている。そう考えればどこか可笑しく思えて、グラスを少し揺らしてみせた。
「話があるの」
全てをわからなくさせるには、まだ早い。
酩酊の夢は、まだ訪れなくていい。
その夢に溺れてしまうまで、2人の時間は永遠なのだから。
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