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こと-koto
402
自分のマンションの玄関ドアを開けるのに緊張するなんて……。
気持ちを落ち着けるように大きく深呼吸をしてからドアを開けた。
「ただいま」
洗面所に入り、手洗い・うがいをする。そのままクレンジングオイルでメイクを落とし、洗顔まで済ませると、目の前にある鏡には、スッピンの自分が写っている。
果歩と比べると綺麗じゃないけど、これが私。
もう、なるようになれ。
洗面所を出て、リビングの扉の前に立つ、緊張をほぐすように大きく深呼吸をしてがら扉を開いた。
「おかえり、具合はどう?」
健治が、ソファーから立ち上がり、そっと私の首筋に手を添わせ様子を伺う。首を傾げた健治に見つめられ、それを躱すように俯いた。
「隣の病院で見てもらって、処方箋出してもらったの」
「そう。無理すんなよ。お昼ご飯まだだよな。中華粥作ってみたんだ。今、よそってくるから座っていろよ」
ダイニングテーブルの上に視線を移すと、小皿がたくさん並んでいて、その中に搾菜や梅干し、青ネギ、クコの実、シラス、明太子など和風と中華の食材が置かれていた。
椅子に腰かけ、カウンター越しにいる健治を見ると視線が絡む。すると、健治は優しく微笑み掛けてくる。
覚悟を決めてこの部屋に入ったはずなのに、健治に優しくされて困惑する。
まるで、柔らかい見えない糸に絡み取られているようにさえ思えた。
「はい、熱いから気を付けて」
少し深めの中鉢に入った中華粥が目の前に置かれた。
このお皿は、健治と沖縄へいった時に買ったやちむんのお皿だ。
温かい色合いが二人で気に入って、お土産に買った思い出のお皿。
用意された器に過去の楽しかった記憶が引き起こされて、それが私を縛り付ける。
「どう? 美味しい?」
「うん、凄く美味しいよ。優しい味で体に沁みる感じ」
「そう。良かった」
健治特製の中華粥は、鶏出汁がしっかり効いていて、それだけじゃない何か深みのある味わい。
「隠し味何? 鶏出汁の他に何か入っているでしょ?」
「あ、わかる? ホタテ出汁が入っているんだ。ちょっとズルしてホタテの出汁の素を使っちゃったんだけどね」
「へー、そんなのあるんだ」
「ほら、ネットのレシピサイトに出ているんだよ。それで、近所のスーパーに行って見てみたらあってさ、前に行った時、調味料の棚だって見ていたはずなのに、よく見ていないと気が付かないもんだな」
最近は、家事分担の約束を破って、何もしていなかった健治なのに、今日は朝ごはんも昼ごはんも用意してくれている。
これは、体調の悪い私への気遣いなのだろうか?
それとも罪滅ぼし?
家事をしてくれても、素直に喜べない。その裏を考えてしまう。
「おい、大丈夫か?」
思考に気を取られ、食事を取る手が止まっていた。
「うん、大丈夫。お粥、すごく美味しいよ」
作り笑顔を健治に向けた。
すると、健治の手がスッと伸び、私の頬に優しく触れる。
「まだ、顔色悪いな。無理すんなよ」
「うん……」
頬に触れた健治の手が温かく感じられた。
優しされると、心が揺れ動く。
「ごちそうさまでした」
「ん、ちゃんと食べたな。まだ本調子じゃないんだろ? 俺が片付けるから座ってていいよ」
そう言って、テーブルの上に残っていた食器をキッチンに運んだ健治。
椅子に腰かけたままの私は、この後、健治の浮気(不倫)の話をするかと思うと、とても憂鬱で出来る事なら逃げ出してしまいたい気持ちになる。
テーブルの上にお揃いのマグカップが置かれた。私の分のカップにはミルクたっぷりのコーヒーが入っている。
新しいペアカップだ。
健治が買って来たんだと思った。
両手でコーヒーカップを包み込んで、緊張して冷たくなった指を温めながらコーヒーに口を付ける。
目の前に座った健治も緊張しているのか、深呼吸していた。
そうだよね、原因は健治が作ったのだから……。
そして、話を切り出す。
「今まで健治の事を信じていたけど、今は信じられない。だって、ずっと裏切られてきたんでしょう……。野々宮さんとの関係って、私が見た1回じゃないよね。結局、私と結婚したのだって、野々宮さんとの不倫を続けるのに、隠れ蓑として都合が良かったからなんでしょう?」
ここ数日、ずっと言いたくて飲み込んでいた言葉を吐きだすと、感情が高ぶって、涙がこぼれそうになる。
でも、泣きたくなくて、唇をグッと引き結び、涙をこらえた。
健治は眉根を寄せ、テーブルの上に手をついた。そして、苦しそうな表情を見せ、頭を下げる。
「ごめん、俺が悪かった。一時の気の迷いだったんだ。野々宮にはキッパリと別れを告げてある。俺は、これからも美緒と一緒に居たいと思っている」
健治の言葉に、心の中がかき乱される。
別れてる? でも、なんで果歩は、あんな事を私に言ったの?
「噓つき……。野々宮さんと学生の頃からずっと続いていたんでしょう。……不倫を続けるのに、都合のいい私と結婚したんでしょう。野々宮さんとの不倫のカモフラージュに私は打って付け相手だったんでしょう?」
心に溜まっていた言葉を吐きだした。
こんな事を言っても、自分の惨めな立場を認めるだけだって、分かっているのに……。
堪えていた涙も一緒にこぼれ落ちていく。
泣いても何も解決しないのは知っている。けれど、我慢できなかった。
健治は顔を上げ、真っすぐ私を見据えた。そして、ゆっくりと口を開く。
「美緒と再会した時には、野々宮とは別れていた。友人の結婚式で久しぶりに会った美緒が綺麗になっていて、それで、声を掛けたんだ。都合よくとか、カモフラージュだなんて思ったことない。美緒の事が好きだから結婚したんだ」
真剣な表情で語る健治を信じても良いのだろうか?
信じたい気持ちと信じられない気持ちの間で揺れ動き、私は押し黙る。
「昨日は、美緒の誕生日だったろう? 最高の誕生日にしたかったのに、ごめんな。あの店は、以前、接待で使った事のある店なんだ。野々宮と行ったことはない。ましてや野々宮が来ていたなんて知らなかった。野々宮にはキッパリと別れを告げてあるんだ。これからは浮気もしない。だから俺との未来を考えて欲しい」
健治の言っている事は本当なの? 信じていいの? 野々宮さんと別れたの? 浮気もしないの?
頭の中には、疑問符が浮かぶ。
気持ちの整理が出来なくて、押し黙る私を、健治は真っ直ぐに見すえた。
真剣な瞳、切羽詰まった健治の様子に私は戸惑う。
「美緒……。愛してるんだ。つい、出来心で浮気をしたのは悪かった。本当に反省している。俺にチャンスをくれないか?」
「チャンス?」
健治の思いがけない言葉に驚きながらも耳を傾ける。
「そう、直ぐに結論を出さずに美緒は俺の更生期間だと思って暫く過ごす。その間、もしも俺が美緒を裏切るような真似をしたら、その時は美緒から俺に三下り半を突き付けていいんだ。俺は、美緒の事を大切にする。だから、そんなことは起こらないと思うけどな。これからの事もゆっくり考えられるし、どうかな?」
これからの事をゆっくり考えられる……。
この提案は、直ぐに答えを出せない私には魅力的に映った。
ここまで言うなら、もう浮気はしないって、健治の事を信じたいと思い始めていた。
でも、心の片隅で、好きだと思う気持ちが冷静な判断を鈍らせているんだと、警笛が鳴っている。
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