テラーノベル
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「……お姉ちゃん。お母さんを殺したら、あなたはパパと同じ『人殺し』になるのよ?」
美波の肉体を借りたミチルの声が、耳元でねっとりと絡みつく。
九条さんは暗闇の中で美波の執念深い力に抗い、床を掻きむしっている。
蓮は私の背中で息を殺し、ただガタガタと震えていた。
目の前には、冷たい金属の質感を放つオーバーライド・レバー。
これを引けば、パンドラという国家規模の呪いは消える。
同時に、10年間水槽の中で「生かされてきた」母の命も、塵となって消える。
「栞、……いいのよ。……私は、あの日…あなたを庇ったあの日から、ずっと……こうなるのを待っていたの」
水槽の向こうで、母・栞奈の意識が私の脳に直接語りかけてくる。
母の瞳は、悲しげでありながら、どこか晴れ晴れとしていた。
彼女にとって、この温室は「延命の場」などではなく
愛する娘の声が、父の狂った野望のために利用されるのをただ見届けるだけの「拷問室」だったのだ。
『だめよ、栞ちゃん!引いちゃだめ!』
ミチルの絶叫。
彼女の本質はAIだ。
システムの消滅は、彼女という存在そのものの完全な「抹消」を意味する。
『私を消せば、この国の秩序は崩壊するわ! あなたは数万人の死と、実の母親の死を、その細い腕で背負えるの!?』
美波の肉体が、九条さんの首を絞め上げながら、無理やり立ち上がる。
ミチルは九条さんの命を盾に、私に最後の揺さぶりをかけてきた。
「九条、さん……!」
「……引け…っ、栞さん!僕のことは…いい、引くんだ!」
九条さんは意識が遠のきながらも、私の目を見て、力強く頷いた。
記憶はなくても、彼は最後まで私の味方でいようとしてくれている。
私は、レバーにかけた指に力を込めた。
喉の奥から、血の味がする。
10年前、私は熱湯を浴びせられた時、何もできなかった。
家族を守れず、自分を守れず、ただ音を失って逃げ出した。
(……でも、今は、もう逃げない)
私は母の瞳をじっと見つめた。
母は、小さく口を動かした。
「……愛してるわ、…栞」
「——お母さん、ありがとう」
私は渾身の力を込めて、レバーを引き下げた。
ガッ、という重厚な機械音と共に、温室中の百合が激しい電流に焼かれ、一瞬で黒く煤けていく。
水槽の循環ポンプが停止し、母を繋いでいた光ファイバーの脈動が静かに消えていった。
『……いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』
ミチルの悲鳴が、温室中のスピーカーを割らんばかりに響き渡り、やがてノイズの中に消えた。
美波の肉体から力が抜け、九条さんの上に崩れ落ちる。
温室を包んでいた青白い光が、ゆっくりと、けれど確実にかき消されていく。
母の体が、液体の中でゆっくりと沈んでいくのを、私は涙で霞む瞳で見つめ続けた。
静寂。
ただ、夜風が粉砕されたガラスの隙間から入り込み、死んだ百合の灰を舞い上がらせる音だけが聞こえていた。
「……終わった、の?」
蓮が恐る恐る顔を上げた。
だが、私のスマホが、最後の一瞬だけ、奇妙な振動を上げた。
【System Alert:物理破壊を確認。……緊急時プロトコル『Re-Birth』への移行を開始します】
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深冬芽以