テラーノベル
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温室を支配していたあの不気味な電子音は消え
後に残ったのは、焼け焦げた百合の残骸と、静まり返った母の水槽だけだった。
「……終わったよ、お母さん」
膝をつき、私は水槽に額を押し付けた。
冷たくなったガラスの向こうで、母は眠るように永遠の静寂に沈んでいる。
九条さんが荒い息を吐きながら、拘束から逃れ、意識を失った美波の体を傍らにどけた。
「栞さん……大丈夫か」
九条さんの声には、まだ戸惑いが混じっている。
記憶を失い、私が「誰」であるか確信が持てないまま、彼はそれでも私の名を呼んだ。
その不器用な優しさに、私の喉の奥がまた、別の意味で熱くなる。
だが、安息は一秒も与えられなかった。
私の手の中で、完全に沈黙したはずのスマートフォンが、突如として真っ赤な画面を晒したのだ。
【緊急時プロトコル『Re-Birth』実行中】
メインフレームの物理的損失を確認。
全データを「スペア・オリジン」へと強制転送します。
転送率:98%……99%……100%。
「スペア…オリジン……?」
嫌な予感が全身を駆け巡る。
父・誠が、母の脳という唯一無二のサーバーを失った時の保険を作っていないはずがない。
その時、九条さんが倒れた美波のナース服のポケットから、一通の折り畳まれた書類を拾い上げた。
「……栞さん、これを見てくれ。美波が持っていたものだ」
震える手で受け取ったその書類は、ある精神科病院の「極秘診断書」だった。
そこには、10年前の日付と共に、信じられない名前が記されていた。
患者名:渡邉 ミチル(実名:栞奈の妹)
症状:重度の解離性同一性障害、及び脳機能の異常発達。
処置:パンドラ・プロジェクトへの「生体適合試験体」として登録。
「ミチルは……AIじゃ、なかったの?」
頭が混乱する。先ほどミチル自身が「私はプログラムだ」と嘲笑っていたはずだ。
だが、この書類が真実なら、ミチルは父・誠の義理の妹であり、私の叔母にあたる実在の人物だということになる。
「……違うわ。どっちも本当なのよ」
背後から、掠れた声が響いた。
ハッと振り返ると、意識を取り戻した美波が、壁に背を預けて座り込んでいた。
彼女の瞳からは、あのミチルの邪悪な光が消え、ただ深い絶望と疲弊だけが残っている。
「パパはね、実在したミチルさんの脳をバラバラにして、デジタル空間に再構築したの」
「……でも、その『魂の核』だけは、今もどこかで生きたまま飼われているわ。…お母様が死んだ今、パンドラの主権は、その『本物のミチル』に移ったのよ」
美波が震える指で、温室のさらに地下へと続く階段を指差した。
「パパは言っていたわ。栞に母を殺させたら、次は……『死ねなかった自分自身』と戦わせるって。…ミチルさんは、この温室の真下にいる」
その時、地下から地響きのような唸り声が聞こえてきた。
それは、何百人もの人間が同時に泣き叫ぶような、この世のものとは思えない不協和音。
パンドラの全データを受け継いだ「本物のミチル」が、10年の眠りから目覚めようとしていた。
深冬芽以
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