テラーノベル
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早い。とにかく、事態が早すぎた。
元カレと再会して契約結婚を決め、バーで連絡先を交換し、車で家まで送ってもらった、その翌日。
──教えた口座に学費を振り込んだと、潤からメッセージが届いた。
込み上げる驚きで、オフィスの椅子から転げ落ちそうになるのを必死に堪えて迎えた、お昼休み。私はデスクを飛び出し、上の階にある法務部へと向かった。
「あんな金額を一括で払うなんて……! まさか詐欺? 潤の手違いとかじゃないよね」
ネットバンクで振込を確認したものの、どうしても信じられなかった。大金を前に冷静ではいられず、洗練されたオフィスを足早に駆け抜けていく。
「……そういえば、私。潤といたときは、いつもドキドキしていたな……」
法務部のフロアに辿り着き、ふと懐かしい気持ちが蘇ったとき。
ちょうど目の前のリフレッシュコーナーから焦ったような声が聞こえ、思わず足を止めた。
入り口脇にある観葉植物の陰に隠れて、様子を伺う。
「巴さん、昼休みにすみません!」
──巴。きっと潤のことだ。
物陰から覗くと、自販機の前で潤が男性社員と話し込んでいた。
今日の潤はネイビーのストライプスーツが爽やかで、リムレス眼鏡も相まって実に知的だ。手にしている缶コーヒーさえ、彼を彩るアクセントに見える。
対して、もう一人の男性は余裕がない様子で、資料を片手に潤へ捲し立てていた。
「SACRAが開発中の次世代基板の業務委託契約書、相手方の修正案が戻ってきて……。お聞きしたいことがあるのですが、いいですか?」
「いいよ、気にするな。とりあえず資料を見せてくれ」
「はい、これです。ええと、IP、知的財産権が先方帰属のままですが、このまま通しちゃまずいですよね?」
缶コーヒーを持ちながら、片手で資料を受け取り目を通して行く潤。そしてすぐに、資料を再び男性に返した。
「うん、これは呑めないな。向こうは老舗だからと、ふっかけて来たかな」
潤はペキリと缶コーヒーの蓋を開けて、一口飲んだ。
「で、ですよね……」
「確かにあちらが基盤の権利を多く持っているが、今回の主体はSACRAだ。こちらが提供する仕様に基づく改良なら、少なくとも独占的実施権は確保しないと。特許の『共有』か『SACRAへの帰属』で差し戻してみようか」
「承知しました。あと損害賠償の条項ですが、上限《キャップ》が外されています。これはどうしますか?」
もう一口飲もうとした、潤の手が止まる。
眼鏡の奥の綺麗な瞳が、鋭く細められた。
「メーカーとして無制限のリスクは負えないな……以前使っていた定型文書でも送ってきたのか。まぁいい。直近一年の取引額を上限にするか、定額を置くよう修正して。あと、製造物責任の分担も曖昧だから、そこも明確に打ち返そう」
「了解です。すぐに修正案を作成します!」
「この件は佐藤さんがメインだから、修正後は必ず佐藤さんのチェックをよろしく。法務がここで踏ん張らないと、現場が泣くことになるからね」
潤は最後は爽やかに微笑むと、男性社員は元気よく「ありがとうございます!」と言ってオフィスへと戻っていった。
「……潤、凄い。かっこいい」
淀みなくアドバイスする姿は、仕事ができる男そのものだった。
私と別れたあとも、弛まない努力をしたのだろう。そんな過去を容易に想像していると、潤の元にまた人がやって来た。
今度は華やかなメイクが特徴な女性社員たち。
親しげに潤を囲み、ランチに誘いだした。
「やっぱりモテるよね……」
何しろ潤は広報のインタビューを受けるぐらいだ。
なんだか近づき難くて、今は話せない。
あとでメッセージを送るべきだろうと思った、その時だった。
「──そこにいるのは、知佳?」
「!」
潤に声をかけられ、丸まっていた背筋をしゃんと伸ばした。
「どうして、ここのフロアに?」
女性たちの囲みを抜けて、一直線に歩み寄ってくる潤。
「あ、えっと……」
今、ここでお金の話をするのは拙い気がした。
咄嗟に──
「ちょっと、飲み物を買いに来たんです」
と、言ってしまった。
しかし潤は形の良い唇を少し吊り上げた。
「ふぅん。下にも自販機はあったと思うけど?」
確かに。
良い言い訳が思い浮かばず。
少しだけ目線を下げて、潤のシルバーのネクタイを見つめてしまうとそっと耳打ちされた。
「そこは、俺に会いに来たって言って欲しいな。《《奥さん》》?」
ぱっと顔を上げる。
目の前には悪戯っぽい微笑を浮かべる潤に、頬がなんだか熱くなる。
「っ……ま、まだなっていませんっ。そうじゃなくて、私はその、妹の」
そこまで口にしたとき、なにやら鋭い視線を感じた。それは自販機前にいる女性社員たち。
あきらかに「面白くない」と言った顔をしていた。
あ、冷静にならなきゃ。
ふぅっと深呼吸して、潤を見る。
「取り乱してすみませんでした。実は昨日の件でお話ししたいことがあり、会いに来ました。ですが、また場を改めます」
潤も女性社員の視線に気付いたようで、そっと私から体を離した。
「──そうだね。知佳とはゆっくり喋りたいし。じゃ、今日仕事終わったらビル横のタクシー乗り場に来て」
「え」
「車で迎えにいくから。じゃ」
潤は最後に私の頭をポンと人撫でして「早く下に戻って」と言ってから、女性たちに目もくれず、オフィスへと戻って行った。
思わずその広い背中を見つめ続けてしまいそうになるが──女性社員の人達が私を見ながら、冷たい視線を送っていて、赤い唇をにぃっと歪めた。
思わずその様子に体が固まる。
聞こえてくる密やかな声。
──なにあれ。
あの子、労務部の鉄仮面女じゃない?
あぁ。自分をクールだと、痛い勘違いしている子だよね。
お高くとまって、何様のつもり。
クスクスと笑う赤い唇たち。
その様子から、入社当初のことを思い出した。
入社したばかりの私は多分、若いと言うだけで営業職の男性から食事に誘われていたりした。
でも私は仕事を覚えるので必死で、誘いを全て断っていた。そうしていると声も掛けられなくなったが……
一部の女子社員から『調子に乗っている』と、悪口を言われたことがあった。
その声と、今の赤い唇たちの声が重なり。
顔を顰めそうだったが──昔と同じように無表情を作り。聞こえない振りをした。
そして静かに、素早く。自分のフロアに戻るのだった。
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コメント
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第3話、拝読しました。オフィスで仕事に邁進する潤さんが本当にかっこよくて、つい知佳と同じように見とれてしまいました……! 同時に、女性社員たちの冷たい視線と陰口には胸が締め付けられました。過去のトラウマが蘇る知佳の無意識の強張り、それが潤さんの「奥さん?」という甘い声でふわりとほどけるような感覚、すごく好きです。二人の距離が少しずつ縮まる予感に、次の話が待ち遠しいです🌷