テラーノベル
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仕事が終わり。いつもだったら電車に乗り、地元のスーパーに寄るところを、私はSACRAビル横のタクシー乗り場へと足を運んでいた。
空は夕焼けに染まり、周囲ではビルから出てきた人たちが、各々帰路へと向かっている。
道の端に寄り、人や車の流れをぼんやり見つめながら「本当に潤は来るのだろうか」と考えてしまう。
潤は仕事ができて、端正な容姿の持ち主だ。
彼には私のような人間ではなく、昼間ランチに誘っていたような、華やかな人たちが似合うのではないだろうか……
「契約結婚の返事をしたのに、お金も振り込んでもらっているのに……そんなこと、今更よね」
それでも昼間に言われた冷たい言葉が、ずっと胸に刺さっていた。
自分をクールだとは勘違いしていないが、装っている自覚はある。だからこそ、何も言い返せなかった。
「仕方ないじゃない。そうやって生きてきたんだから……」
ふうっと重いため息を吐いた、その時。
タクシーよりも遥かに磨き抜かれた、黒の高級車が滑らかに私の前で止まった。
驚いて顔を上げる。
一瞬、どこかの重役の迎えかと思ったが、窓が降りて潤が姿を現した。
視線が合うと緩く手招きをされたので、ため息の着地地点を失ったまま車に駆け寄り、助手席へと滑り込んだ。
「迎えに来てくれて、ありがとうございます」
慣れない高級車に戸惑いつつシートベルトを締めると、車はまた滑らかに発進した。
緊張で体が固まったが、爽やかなカーフレグランスの香りに、少しだけ緊張がほぐれて、ゆるりと背中を座席へと預ける。
「いや、こちらこそ。助手席に乗ってくれてありがとう。嬉しいよ」
「そんな……」と、私は首を振った。
さて、お金のことをはじめ、今からどこへ行くのか。聞きたいことは山ほどある。
緩やかで心地よい運転と、二人きりの密室空間。これを楽しめない自分は可愛くない女だろう。
そう思って口を開きかけた瞬間「午前中に振り込んだ金額、間違いなかった?」と、潤が先に口火を切ってくれた。
「早速で驚きました。手違いかと思ったくらいです。……実は今も、ずっと驚きっぱなしで」
ハンドルを握る潤の横顔を見つめる。
「驚きっぱなしか……ふっ」
潤が小さく笑った。何か変なことを言っただろうかと首を傾げる。
「あぁ、悪い。ちょっと昔の君を思い出して、何も変わっていないと思っただけだ。振込の件だが、妹さんの大学と学部の納付金を調べて振り込んだ。不足があれば言ってほしい」
『変わっていない』
その言葉に胸がまたちくりとしたが、今の問いかけに間を置いてはいけない。私は運転席側へと体を向ける。
「いえ、不足なんてありません。一部、既に収めている金額もあるので、確認してから過剰分はお返ししたいのですが」
「渡したお金を返せ、なんて言わない。好きに使えばいい。使い道はそちらに任せるよ」
本来なら「いえ、ちゃんとお返しします」と言うところを、ぐっと飲み込んだ。ここまで来たら本音を言おうと思った。
「それは……妹がお洒落をしたり、美味しいものを食べたりしても大丈夫、ということですか?」
「もちろんだ」
その言葉に、心底ほっとした。
菜奈佳の自由な時間が増える。
家族の心理的な負担も減る。
それは長女としての役割を果たせた、何より喜ばしいことだった。
つい口元が緩みそうになるのを律し、次は自分が潤に応える番だと気持ちを引き締める。
「ありがとうございます。では……私は潤の奥さんを、偽りであっても全力で務めます。料理も掃除も頑張りますので、何なりと言ってください」
真剣に潤を見つめると。
「……っ、かわいい……」
意外な言葉が飛んで来て驚いた。
赤信号になり、車が動揺したかのように停車して、かくんと私の体が揺れた。
今、「かわいい」と言われた気がしたが……聞き間違いだろう。潤は私から視線を逸らしている。
私は別に、かわいいことなんて何も言っていない。むしろ大金を貰ったのに、それに見合う対価を何一つ用意できないのだ。
「すまない、なんでもない。ええと、だな。俺は君を家政婦にしたいわけじゃない。既に無茶な要求を飲んでもらっている。契約結婚に付いて、不明瞭なことが多いだろう。今日は詳しくそのことをしたい」
「それは休みの日に……」
「ごめん。休みの日には入籍できるよう、話を進めたいと思っている」
そこで潤はちらりと私を見て、「知佳と早く結婚したいから」と付け加えた。
「結婚したい」は、愛の言葉でもある。
それを真剣な眼差しで言われ、いくら私でも勘違いしそうになって言葉に詰まった。
「再会して早々、積もる話もそっちのけで悪いね」
青信号になり、車が走り出す。
「いえ、大丈夫です。問題ありません」
過去を振り返るには、まだ切なくてほろ苦い。触れないでいてくれるほうが助かる。
会えなかった十年で、互いに大人になった。
姿を見れば、それだけでわかる。そう冷静に分析してしまう自分を、やはり「可愛くない女」だと思ってしまうのだった。
会社のビルから離れて、二十分ほど。
市内から少し離れた場所に着いた。そこは住宅街だが、頭に『高級』『豪邸』『富裕層』といった言葉が付く区画だった。
黒い壁が長く続き、ぷつりと切れた先にガレージハウスがあった。そこに車が、当たり前のような顔をしてスルスルと吸い込まれていく。
「じゅ、潤。ここって、もしかして潤のご実家?」
「いや。俺の家」
「!」
「とは言っても、叔父の固定資産税対策として俺が住まわせてもらっている。俺のことを知ってもらうには、家を見せるのが一番早いかと思って。これからプライベートな話もするだろ? 外よりも家の方が落ち着けるしね」
固定資産税対策。
お金持ちならではの発想に目を丸くすると、潤は「もちろん変なことはしない。そこは『元カレ』を信用してくれ」と苦笑した。
そこは問題ない。
潤はいつだって紳士だった。初キスだって、私のタイミングに合わせてくれたくらいだ。
潤は車を止めて、エンジンを切った。
彼が無言で指をさした方向にある扉が、家の中へと繋がっているのだろう。私もシートベルトを外し、車を降りた。
潤がスマートキーで施錠をすると、カチリとガレージ内に音が響く。
「叔父は新しく別の家を建てたから、この家を俺にくれるそうだ。そういう経緯の家だけれど、知佳が問題なければ、ここに住んでほしいと思っている」
「ここに……」
今乗ってきた車の横には、もう一台、白い高級車があった。さらにもう一台分の空きスペースがある。広いガレージに私は目を見開くばかり。
──お金持ちだとは知っていたが、ここまでとは思わなかった。
付き合っていた頃は二人とも実家暮らしで、ちょっと前まで高校生だった私たちは、相手を家に連れて行くことに気恥ずかしさがあった。
だから、会う時はいつも外だったのだ。
思い出さないようにしていた記憶が、一つずつ紐解かれていくようで胸の鼓動が早くなる。
コメント
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第4話、読み終えました!潤が「妹さんの大学の納付金を調べて振り込んだ」ってところにまずグッときましたね……細かい気配りができる元カレってずるい。 「かわいい」って思わず漏らしたのも、あのタイミングで自然に出た本音なんだろうな。 主人公が「可愛くない女」と自己評価してるのとは裏腹に、潤の目にはちゃんとそう映ってるのがじんわりきます。高級車と高級住宅街の描写で二人の距離感が可視化されてて、次が気になる終わり方でした!
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