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「それで、知佳が今後俺とセックスしたくないと思ったら、二度としない。でも、そうじゃなければ──」
「潤、待って! ええと、ですねっ!?」
それでは本当の夫婦のようでは?
いや、えっと、本当がよくわからないっ。
頭が追いつかない。
契約結婚とは一体。
それよりも、私はまだ──処女なのに!
こんな高度な条件提示、その場で処理なんてできない。一旦家に持ち帰らせてほしい。
頭がぐるぐるして、素の自分が出そうになった、その瞬間。
お腹が──きゅう、と鳴った。
きょとんとする潤。
「っ、失礼いたしました……! あの、その……空腹は、生理現象でして……っ!」
恥ずかしさで死にそうだった。逃げ出したい。顔も耳も火が出るほど熱い。
すると、潤がくすっと小さく笑った。
「仕事が終わって、お互い何も食べてないもんな。悪かった。俺も実は腹が減っていたんだ。まずは食欲を満たそうか」
潤はそう言いながら立ち上がり、ぐっと背伸びをした。
「あ、あの……」
「この近くにおばんざいバーがあるんだ。酒を飲まなくても楽しめる料理が色々ある。そこに行かないか?」
そっと差し出された手を、私は目を泳がせてから、ゆっくりと掴んで「はい」と頷いた。
潤は私の狼狽ぶりを察して、話を切り替えてくれたのだろう。もっとクールに振る舞わないと、潤の妻は務まらないと感じた。
「今日はここまで。でも、俺が言ったことを訂正するつもりはないから、今週末どうするか、考えておいて」
思わず手を引きそうになったが、逆に強く、キュッと握りしめられた。
「じゃあ、行こうか」
微笑む潤を見て、彼は本当に大人の男になったのだと感じた。
それはほんの少しだけ切なかったが、手の温かさが十年前と同じだった。
すぐに胸の高鳴りが切なさを覆い尽くし、甘いときめきが胸に広がっていくのだった。
※※※
知佳を家に送り届け、コンビニに寄ってから帰宅した。
静まり返ったリビング。白いビニール袋をガラステーブルの上に置く。
適当に上着を脱ぎ捨て、ネクタイを緩めてシャツのボタンを外すと、つい数時間前まで知佳が座っていたソファにどさりと身を預けた。
「……帰したくなかったな」
ぽつりと呟いた声が、誰もいない部屋に虚しく響く。
目を閉じれば、美味しそうに食事をして、楽しそうに口元を緩めていた彼女の姿が鮮明に浮かぶ。
昔と変わらず箸使いが綺麗で髪を掻き上げる仕草は、あの頃よりもずっと色っぽく、女らしくなっていた。ドリンクを飲む桜色の唇を、その場で奪いたくなったほどだ。
十年だ。
十年、焦がれていた。
もう二度と会えないと思っていた。
「知佳──」
満腔の思いを込めて、愛しい人の名を呼ぶ。その時、ポケットの中のスマホが震えた。
まさか、彼女からか?
一瞬の期待に心臓が跳ねたが、液晶に表示されたのは母親の名前だった。
「夢を見すぎたか」
自嘲気味に呟き、髪をくしゃりと掻き上げて通話ボタンを押す。
母からの電話は、案の定『新しい職場には馴染めているのか』『近々結婚するという話は本当か』という、探りを入れるような内容だった。
深く背中をソファに預ける。
適当に相槌を打ちながら、俺の意識は別のことを考え始め『職場』という言葉を聞くたび、俺がこの場所を選んだ本当の理由が胸を突いた。
周囲に説明した転職の理由は『SACRAの海外事業に興味がある』という当たり障りのないもの。
そんなのは方便で、新卒で入社した前職が、SACRAと同じく大手メーカーではあったが、あそこはバカみたいに社風が古臭かった。
それが本当の転職の理由。
前職は完全なる年功序列。上司に気に入られないと、実績を上げても出世の道は閉ざされる。
新卒の目では、組織の内側までは見通せなかった。
その分、給料だけは破格だったが、逆に言えばそれ以外に価値などなかった。
個人的な感覚だが社長室はあって然るべきだろう。
しかし、役員たちがそれぞれ豪華な執務室に籠もり、常に運転手付きの車をスタンバイさせているのは馬鹿らしい。
エコやコスト削減、オープンオフィス環境が推奨されるこの時代において、俺にはその価値観が化石のように見えた。
──スピーカー越しに、『結婚なんて急よ。お父さん、海外に出張に行ったばかりなのに』と零す母親を適当に宥める。
父はレアメタルを中心に扱う独立系総合商社の社長だ。
現場主義と迅速な意思決定をモットーに、常に世界中を飛び回っている。そんな父を見て育った俺には、前職の停滞した空気が耐え難かったのだ。
母の話しを聞きながら、ビニール袋からリキュール缶──カンパリオレンジを取り出し、片手でパキッと開けて一口煽る。
「あぁ、だから式などは後回しだ。籍だけは先に入れる。今日、婚姻届を送ったから、証人の欄だけ母さんが書いてくれ。こちらの挨拶はひとまずビデオ通話でいいだろ」
冷えたリキュールをまた一口煽る。特有の甘苦さが、喉に心地よい刺激を与えた。
母は『今どきよねぇ』と呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな声を繰り返していた。
そう、今どきだ。
前の職場はその『今どき』から最も遠い場所にいた。入社後すぐに辞めたくなったが、最低五年間は実務経験を積むべきだと自分を納得させた。
ひたすら仕事だけに没頭し、面倒な上司にも完璧な部下を演じて媚を売った。
そしてSACRAがキャリア採用を始めたと知ったとき、俺は迷わず飛びついたのだ。
──実際のところ額面の給料は前職より落ちたが、株や資産運用はそれなりに上手くいってる。
SACRAには活気があり、社長自身が移動には自らハンドルを握る。福利厚生も手厚い。
若い才能を手厚く育てる社風は、俺の肌に合った。
自分が納得できる環境で働くことはストレスがない。だから今の環境は大変気に入っている。
また一口、カンパリオレンジを飲む。
気づけば缶が軽くなっていた。飲酒のペースが上がっていると思い、母との電話をそろそろ切り上げる。
「──じゃあ、そういうことだから。落ち着いたら両家のセッティングはするよ。じゃあね」
当たり障りのない挨拶で会話を終えて、スマホをソファの上に放り出す。
現段階では「契約結婚」という仮面を被って、知佳とは順調に進んでいるが……。
「書面上のやり取りで終わるような、安い望みは持ってない。俺が求めているのは知佳の全てだ」
残ったアルコールを飲み干し、ソファの背もたれに深く体を沈めた。
この程度のアルコールで酩酊などはしないが、考えごとに酔いしれるにはちょうどいい。
指先に伝わる缶の冷たさは既に常温と交わり、結露が指先を温く濡らしていた。
深く息を吐き出して、口の中に残るカンパリ特有の苦みと、それを追う甘やかさを噛みしめる。
それは、そのまま知佳への|執着《想い》へと形を変えていく。
今でも知佳がカフェで一生懸命に働いていた、姿を鮮明に思い出すことができる。
駅前で学生が多く利用するカフェチェーン。俺もそこを良く利用していた。
混み合う時間帯でも知佳は丁寧に、かつテキパキと仕事をこなしていた。
黒髪をきゅっとお団子に結い、真面目なスタッフという印象だった。
最初はなんてことはなかった。
だが、立地の良さから俺も何度も通ううちに、真面目でクールな彼女が、俺のいつものオーダーを覚えてくれていることに気づいた。
それを見て、この知佳の「特別」になったら、彼女はどんな顔をするんだろうと興味を持った。
今まで付き合ってきた女子たちとは違う、そのひたむきに仕事をする真面目さに惹かれ──ナンパなんて、柄にもない真似をしたのがきっかけだった。
「思えば、あれが短い蜜月だったな」
濡れた缶をテーブルにコツンと置くと、乾いた音がやけに俺の心に響く。
眼鏡を外し、熱を持った目頭を押さえる。
始めは断られると思っていた。
だが、素直に「働いている姿が素敵だったから」と伝えると、知佳は驚きながらも、頬を微かに染めて頷いてくれた。
それからは驚くほどに充実した毎日だった。
目頭を抑えた手を退けるのも億劫で、そのまま考えを走らせる。
コメント
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うわあ、第6話……潤の視点が加わって、俄然深みが増しましたね。彼が「帰したくなかったな」と呟くシーン、あれだけで十年の想いと焦がれがひしひし伝わってきて、ぐっときました。そしてカンパリオレンジの苦みと甘やかさを執着に重ねる演出、すごく好きです。知佳がお腹を鳴らしてしまう可愛らしさとの対比も絶妙で、二人の関係がこれからどう転がるのか、もう気になって仕方ないです。