テラーノベル
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知佳は聞き上手で、俺の財布やステータスよりも俺自身のことや、大学でどんな勉強をしているのかに純粋な興味を持ってくれた。
俺の家柄を詮索したり、ブランド品を強請ったりすることなど一度もなかった。
「いじらしい。だから、いつも奢りたくなった。そのお返しだと彼女がくれる手作りの弁当やクッキーが、どれほど嬉しかったか」
むしろ、それらが欲しくて俺は奢っていたところがある。
若さゆえに「手作りのものが欲しい」なんて、気恥ずかしくて口が裂けても言えなかった。
穏やかな日々の中で、知佳の硬い表情が少しずつ、俺の前でだけ解れていくのが最高に愛おしかった。
知佳は無表情なわけでも、冷徹なわけでもない。ただ、自分の感情を厳しく律しているだけだと感じた。
その自制心を、俺だけがじわじわと崩していく過程は、言葉にできないほどエロティックで背徳感に満ちていた。
閉じている蕾を、指先で一枚ずつ丁寧に剥がしていくような感覚。
だが、それは裏の欲望だ。
表にあるのは、ただ彼女を独占し、守り抜きたいという狂おしいほどの愛情。
知佳のすべてを、俺だけが知っていればいい。
彼女のペースに合わせ、初めてのキスも触れるだけの優しいものにした。
知佳はそれだけで、花が開くように微笑んでくれた。「幸せだ」と言って俺の胸に顔を埋めた彼女の体温を、今でもこの腕が覚えている。
「惚れた女にそんなことをされたら、誰だって堕ちる。無自覚な誘惑ほど怖いものはないな」
その時に俺は決めたのだ。
知佳のために生まれて初めて「自分で稼いだ金」で特別なプレゼントをしたい、と。
有名テーマパークの一日フリーパス付き、ホテルディナーがセットになった宿泊プラン。
当時の流行りのセレクトだが、それを贈れば知佳が喜ぶと信じて疑わなかった。
だが、その金額は大学生が支払うには決して安くない。
その資金を稼ぐために、俺は弁護士事務所でのアルバイトを始めた。
知佳も「バイトを増やす」と言っていたから、良いタイミングだと思っていた。
ちょうど試験時期も重なり、忙しくて会えない日々が続いた。
けれど、それもすべてプレゼントを渡せば報われる。そう信じていた。
しかし、会えない時間はすれ違いを生み、他愛のないケンカをしてしまった。
ケンカなんてカップルには付きものだ。仲直りすれば問題ない。
そう楽観視していた俺は、知佳が少しずつ、俺との距離を広げ始めていたことに気づかなかった。
キスをしてから先へ進まなかったら、愛想を尽かされて当然だろう。
気づいたときには、別れの通告が俺の心を引き裂いた。
本当は別れたくなんかなかった。
だが当時、世間を騒がせていたストーカー事件のニュースが、法律を学ぶ俺の脳裏に警鐘を鳴らした。
ここで食い下がれば、彼女にとって俺は「恐怖」の対象になってしまうのでは……。
怯えられるくらいなら、潔く引くのが男の矜持なのだと。そう自分に言い聞かせ『分かった』と返事をしたのだった。
「全部、懐かしい思い出だな……」
結局、必死で貯めた金が使われることはなかった。
せめて宿泊プランを、彼女と妹にだけでも楽しんでほしい。そう思ってカフェを訪ねたが、彼女はすでに去った後だった。
連絡先も繋がらなかった。
無言の拒絶。そう感じた。
そうした失恋の痛みは、俺の心にずっと棘が刺さったように、この十年間残り続けた。
月並みだが彼女を忘れるために、他の女性と付き合ってみたこともあったが、誰を抱いても知佳の面影を追いかけてしまった。
そんな関係が長続きするはずもなかった。
そうして仕事だけに打ち込み、転職をすると――まさかの再会。
転職先で彼女の姿を見つけたとき、運命だと感じた。鮮やかに当時の甘くて切ない気持ちが蘇った。
心臓が高鳴り、真っ先に頭に浮かんだ言葉は『二度と離しはしない』だった。
そうやっていくら言葉を重ねても、チープにしか言い表せない。人の感情は強くなればなるほど、単純なものになる。そう、実感した。
言葉で足りないと知佳に言われたら、現実的な行動として、地位も財産も全て知佳に捧げても惜しくはない。
そんな単純な思いの裏腹で、知佳の身辺を調べて弱みを掴んだ。
専務から結婚を勧められたのは本当だが、回避の道など幾らでもある。
でも『契約結婚』を結んで、ひとまずは知佳を俺の手元に引き寄せるには、都合の良い舞台装置だったので利用させてもらった。
知佳を手に入れるためなら、俺は何だってする。
そう心に決めただけだ。週末、知佳が俺を拒否したら、また別の絡め手を考える。
俺は──知佳自ら、俺を求めて欲しい。
十年間焦がれ続けた俺を受け入れて欲しい。
契約結婚のリミットは一年。
そのあかつきには契約から本物の……。
その時、深く深呼吸して体が眠りに着こうとしたのを感じた。
さすがにここでは寝れないと、ぐっと背伸びをして、忍び寄るまどろみを振り払う。
重い瞼の視線の先にあったのはテーブルの上にある、水滴で滲んだ輪の中に佇む、カンパリオレンジの空き缶。
カンパリオレンジのカクテル言葉は『初恋』だ。
「知佳、今も俺は君だけが愛おしい。再会して、君にまた一目惚れしたんだ。……いや、もう一度恋に落ちた」
誰もいない空間に向かって放たれた言葉は受け止める相手もなく、夜の静寂に溶けて消えた。
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コメント
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うわあ、第7話、めちゃくちゃ心に沁みました……。主人公の「知佳を独占したい」っていう執着とも愛情ともつかない複雑な感情、すごく生々しくて引き込まれました。特に「閉じている蕾を剥がすような」っていう表現、背徳感と官能性が混ざっててゾクゾクしました。そしてカンパリオレンジの「初恋」カクテル言葉で締めるラスト、切なくて余韻がすごいです。これはもう運命だと思わざるを得ないですよね……。