それから
更に二百年の歳月が静かに流れていた。
森は変わらず、静謐をたたえていた。
だが、その外──
人の世界では
確かに風向きが変わり始めていた。
かつて、魔女という存在は
〝畏敬〟の対象であった。
遥かなる叡智を持ち
天の理に近しくある者たちへの
神に似た尊崇。
人間は魔女に手を合わせ
助言を乞い、祝福を求めていた。
しかし、それはやがて
〝畏怖〟へと変じていく。
理解を越えた存在は
尊敬の対象であると同時に
いつの時代も恐れの対象でもあった。
その畏怖は、じわじわと民の間に浸透し
やがて〝疑念〟という名を纏い始める。
「彼女たちは、人ではない」
「災いすらも招くのではないか」
そうした囁きは
まるで乾いた草原に火を放つように広がり
ついには、魔女たちの住まう各地において
断続的な襲撃を引き起こすようになった。
アリア・ミッシェリーナは
そのたびに自らの両翼を広げ
各一族のもとへと赴いた。
光の神を宿す者として──
世界の均衡を守る〝楔〟として。
彼女が現れると、襲撃に来ていた者たちは
恐れおののき、ひれ伏した。
炎の翼を背に携えたその姿は
もはや神話の中の存在とすら思えたからだ。
だが、いかに神であろうと
人の心を永久に縛りつけることはできない。
一度追い払えば、しばしの間は沈黙を保つ。
だが数十年も経てば
再び別の地で火の手が上がる。
それは、繰り返し続いた。
終わりの見えない
百年にわたる静かなる戦い。
その都度、アリアは何度も森を飛び立ち
何度も人間の前に現れ
何度も血を見ずに事を収めてきた。
けれど──
それは、ほんの序章に過ぎなかった。
ある日、一報が入った。
「新しき〝信仰〟の子が産声を上げました」
その報は、魔女一族の中でも特異な立場──
〝法王〟に相当する立場を持つ一族の元から
もたらされた。
その能力は
〝加護〟を与えるという、極めて希少な力。
己の祈りと信仰を原動力に
己以外の者へと奇跡をもたらす異能。
本来ならば
不死鳥の産まれ直しが訪れる
五百年の周期に合わせて
他の魔女の転生者たちと共に現れるはずの者
──だが、その子は
まだ五百年を迎えるより遥か手前
ほぼ四百年目という異様な早さで
この世に生を受けた。
その一報を受けた時
法王の一族は騒然とした。
一族の大長老たちは、戸惑い
目を見開いたまま互いに問いかける。
「まだ、百年もあるはずではなかったのか」と。
アリアもまた
その報せを聞いた時、深く思案に沈んだ。
(⋯⋯時の軸が⋯⋯ずれてきている⋯⋯?)
不死鳥は
常に五百年ごとの産まれ直しを通じて
光と闇の均衡を守ってきた。
その周期に〝異変〟が生じることは──
過去に、一度たりともなかった。
(お母様⋯⋯どうか⋯⋯)
広間の奥
静かに佇む
前女皇帝・シルヴィアの肖像画を見つめ
アリアは
心のうちでそっと祈るように言葉を結ぶ。
(どうか、御見守りください⋯⋯)
あの人なら
今のこの揺らぎをどう見ただろうか──
どう導いたのだろうか。
この日を境に、アリアの中で、微かに
だが確実に──
運命の歯車が軋みを上げ始めていた。
それはまだ
誰の目にも見えぬほどに小さな音だったが
やがて
世界の理を揺るがす大きな咆哮へと
繋がっていく。
その始まりを
まだ
誰も気付いてはいなかった。
⸻
──八十年。
それは人の一生にして
円環の終焉とも言える歳月。
そして、その時が訪れた。
恐れていた通り、予感していた通りに。
五百年の周期を百年も早く巡り来た
あの〝加護の子〟──
信仰の魔女一族から生まれし彼女は
齢八十を迎えるその年、不治の病に倒れた。
その報は、霧のように静かに
されど確実に、魔女一族の全域を駆け巡った
法王的立場を受け継ぎ
幼き日より〝祈り〟を力へと変え
アリアをも支えてきたあの魔女が
もはや立ち上がることすら叶わぬ
病床に伏している。
神託をもたらすはずの唇は青ざめ
かつて澄んでいた瞳は
もはや薄い濁りを湛えていた。
法王の血を継ぐ一族たちは
動揺を隠せずにいた。
聖なる加護を与えるはずの者が
神にも癒せぬ病に蝕まれるなど──
それは、神々の加護の終焉か
あるいは不死鳥の堕落かとすら囁かれた。
そんな沈痛な空気の中
一人、堂々とその場に立った者があった。
アリア・ミッシェリーナ
光の神、不死鳥を宿す唯一の女皇帝。
その姿は数百年前と何ひとつ変わらず
金糸のような髪が背に流れ
燃える翼を背負ったその姿は
まさに〝時を拒む女王〟そのものだった。
その彼女が
集う魔女たちの前で、静かに告げる。
「⋯⋯彼女が永遠の眠りにつこうとも
産まれ直しの儀は成立します」
その声は決して鋭くも、冷たくもない。
けれど揺るぎなく
誰の心にも静かに染み渡るようであった。
「歴代、不死鳥は自らの意志で首を垂れ
産まれ直しを受け入れてきた。
残りの長が揃えば
儀は滞りなく行えるでしょう。
⋯⋯彼女の苦しみを
無理に長引かせてはならぬ。
彼女は、今まで本当によく
その務めを果たしてくれました」
その言葉に、場は沈黙に包まれた。
誰もが、アリアの瞳に宿る深い憐憫と
静かな誇りを感じ取っていた。
そして──
それから数日と待たず
信仰の魔女はその生涯を閉じた。
葬儀は森の深奥
月と花が降る清き祭壇で執り行われた。
その眠るような顔は静かで
どこか満ち足りた
安堵の表情すら浮かべていた。
その亡骸に最後の別れを告げたアリアは
閉じられたその瞳を、指先でそっと撫でた。
その瞬間。
彼女の内に在る、不死鳥が微かに反応した。
無言のまま──
だが確かに、嘴の端を持ち上げたのだ。
それは、まるで人間のように──
不遜に、嘲笑うかのように。
けれど、その異変を
アリアは気付かなかった。
それはあまりにも微細で
あまりにも深淵に潜んだ動きだった。
彼女の背の炎は、いつものように静かに揺れ
その眼差しは変わらぬ静謐を湛えていた。
そしてそれから幾数年経つうちに
まるで儀式の準備が整うかのように──
能力を持つ
各魔女一族の長となるべき子らが
次々にこの世に誕生していった。
その報せが玉座の間に集まるたび
アリアはひとつひとつ
静かに頷き
心の内で何かが満たされてゆくのを
感じていた。
(ああ⋯⋯この子たちが育ち
不死鳥の産まれ直しの儀式が済めば⋯⋯
私も、子を成し
やっと務めから、不老不死の身体から⋯⋯
見送るばかりの時代から
見送られる側になれるのだ)
その願いは、欲ではなかった。
それは、あまりにも永きに渡って
ただ〝残された〟者にしか生まれ得ぬ
深い安息への祈りだった。
その折、長老会にて──
アリアの〝伴侶〟についての
最終決定が下される。
「この世代
植物の御力を持つ子は女児にございました」
「よって、アリア様の伴侶となるべきは
重力、擬態、または記憶の御力の一族の
男児となりますが──」
長老の一人が、慎重に言葉を選ぶ。
「記憶の一族は⋯⋯先代女皇帝
シルヴィア陛下の伴侶でございました。
同一の血脈より連なるのは
因果として重ねぬ方がよろしいでしょう」
座にいた一同が頷く中、別の声が上がる。
「今世代においては、擬態の一族の男児が
御力の発現も早く、器量も優れております。
ゆえに、彼を〝伴侶〟とするのが
最も妥当かと存じます」
静かに、粛々と
運命が組み上げられていく。
そうして──
魔女の長老会の決定により
アリア・ミッシェリーナの〝伴侶〟が
正式に定められた。
それは
数世紀を経て積み重ねられた
血脈の先における
不可避なる継承と決断であった。
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