魔導書だ。ユカリは首飾から感じるただならぬ気配で確信する。同時にマルガ洞窟から誘うように発せられていた気配も消え失せていた。そして引き出されるようにユカリの内に現れた感覚は以前に魔導書の宿った剣を握った時に似ている。
どうなるか分からないがどうすればいいか分かる。分かってしまう。
ユカリは祈るように、両手で紫水晶に触れ、その力を引き出す。すると糸の形をとって魔導書に秘められた魔法がユカリの指の間から溢れる。
一瞬の内に魔法少女の衣が泡のように弾けて消え失せ、ユカリは元の姿に戻った。すらりとした手足が伸びて、しなやかな肢体を解放する。しかし狩り装束は現れず、代わりに紫水晶から紡がれた魔法の糸が艶やかな布を織り、艶やかな衣を縫い、新たにユカリを覆っていく。輝く糸は一繋ぎの衣装を織り上げる。
星々の秘密を隠す朝まだきの如く薄地の白衣が幾重にもユカリの和肌を優しく覆う。腰と肩を適度に窄め、ささやかな緊張感をもたらした。胸元には麗らかな縁飾を添え、裾は幽かなさざ波を打つ。手先足先を二十枚の小さな星空で飾り、高い踵がさらに背を押し上げる。
一呼吸おいて現れた漆黒の外套をゆるやかに羽織り、艶やかな金の襟止めが一つ左右を繋ぐ。夜闇のつば広の帽子が頭を覆い、流星の如き羽根飾りを戴く。
そして最後に紫水晶が形を変えて、新たな杖らしきものが生まれた。しかし魔法少女の杖よりも柄がさらに短い上に持ち手は先端で花のように広がっている。
「ちょっと露出多くない?」とグリュエーまでベルニージュのようなことを言いだした。
「魔法少女と違って私の表面積が広いからね」と言ってユカリは優雅にくるりと回る。「でもこれは間違いなく歩きにくいなあ。外套も帽子もほぼ飾り。大道芸人か吟遊詩人みたいだね」
そしてこの衣もまた魔法少女の衣装と同様に呪いを弾く力があるらしく、ラミスカ本来の姿でありながらこのラゴーラ領を覆う闇の呪いを受け付けないでいる。
呆気に取られている人々の前で杖を握りしめるとユカリは何をすれば良いのか理解した。魔導書に理解させられたのだ。
【杖の先――持ち手かもしれない――を口元に持ってきて、「あ」と言う。
すると大地が「あ」とこだまする。
ユカリと同じ声が何倍にも増幅し、溢れ出し、広場を抜けて空に響いた。それはかつてウィルカミドの街で尼僧モディーハンナが演説に使っていた魔法に似ている。
同時にユカリの心の内に詩趣が現れる。それは泉のように湧き出すのではなく、雲のない空から黄金の雨が降り注がれるようにユカリは輝きを帯びた詩を浴び、すると歌が、音楽が、自然に口を突いて出た。
最初は呟くように、続いて囁くように、次第に赴くままに、魔法の歌を口ずさむ。声は淀みなく、歌は止め処なく、想いは当て処なく、喉の奥から溢れゆく。
耳朶に跳ねる軽やかな響きが、響いて響いて波打つように、祈りの広場に満ち満ちて、呪いの丘を駆け上る。
無愛想な風吹く恵みなき荒野に。行倒れのように冷たい石の臓腑へ。我が身の呪わしさに嗚咽する虚ろな洞を。魔法の歌が勇み行く。
初めて聞く歌が、初めてうたう歌が、胸を締め付けるような郷愁を掻き立てる。
それは丘の連なる故郷の、野花に戯れる幼子のラミスカのうたう歌だった。それは炉辺の囁く傍で義母に教わった異国の歌だった。それは焚火の呟きと共に聞いた義父の口ずさむ知恵者の歌だった。それは丘を上って美しい花を摘んで、いつか見せてあげられたらと父母を想うわらべ歌だった。
まだ弓の引き方もしらない子供が誰も近づかない洞窟へと飛び込み、濡れた鍾乳石の陰に縮こまる闇を引っ張り出す。孤独を友にした少女が冷たい石切場を這い上り、抱えきれないほどに携えてきた小さな花々を散りばめる。束縛とは縁のない風と親しい乙女が涸れた大地を両の足で駆け巡る。
それは丘の間にいくつもあるが、ラミスカだけが知っている、ラミスカだけが翼を広げ、飛んで行くことのできるまほろばだ。幻の如く眩い太陽と、夢の如く香る大地。沢山の謎めいた危険と上手に隠れた甘い秘密、賢く勇ましい戦士たちと猛り狂う古の怪物。
ユカリの知らない神秘の詩歌がユカリのよく知る世界を率い、呪いの向こうからやってくる。野花で装う緑の大地を後ろに連れて、爽やかな風を追い立てて。
幾度となく訪れた懐かしい場所で、ユカリは歌をうたい、ユカリはうたい終えた。
ラゴーラ領の全てが清められた時、ユカリの歌は枯れ果て、と同時にマルガ洞が音楽の終わりを待っていたかのように、投石機の猛攻を耐えられなかった城壁のように音を立てて崩れ去った。
萎れた草と力なき低木の荒野に緑が芽吹き、鮮やかに彩られ、何もかもが弾けるように輝いて、呪わしい闇の姿は消え去っていた。】
ただし、天を領する八つの太陽は相変わらず緑に灯っている。
それでも長らくクヴラフワを苦しめてきた事態の好転に恍惚としていたユカリを呼び戻したのは、メグネイルの人々のすすり泣くような祈りの声だった。
さっきまで無意識に全力を尽くして歌っていた自分が急に恥ずかしくなり、ユカリは顔を赤らめて縮こまる。
「これでクヴラフワ全土の呪いが解けたの? もしそうじゃなかったら、あと何回歌うことになるんだろう」とユカリは助けを求めるように呟いた。
老人たちはただただ祈るようにすすり泣いている。クヴラフワ衝突以前を知らない世代は瑞々しく色鮮やかな世界を目の当たりにして目をぱちくりさせている。ある者は薄緑の空や芽吹いた丘を仰ぎ見、ある者たちはお互いに見知らぬ知人を凝視している。霧や夢や黄昏の向こうにあるという人ならざる者たちが住まう異郷に迷い込んだ時のように、人々は周囲の全てを熱心に眺めている。
ユカリは人々を見渡す。シシュミス教団の神官も街の人々も、誰もがその場に力なくうずくまっている。それが全員だとすれば、多くの人々が姿を消したことになる。そしてドークの姿もなかった。
『這い闇の奇計』にマルガ洞の奥へと連れ去られたのか、あるいはクヴラフワの外へ通じていると信じて自ら飛び込んだのか。それは誰にも分からない。
解呪すれば洞窟が崩れることなど知る由もなかったのだ、という言い訳を聞いてくれる者はおらず、かといって皆救いを喜ぶことに夢中で責め立てる者もいない。
ユカリは振り返り、濡れた瞳で洞窟の残骸を見つめる。
その日の内に――その夜の内にかもしれない――、ユカリは逃げるようにメグネイルの街を旅立った。
というのも街の人々がユカリのためのユカリに感謝を捧げる宴を催そうと決めたからだ。初めはユカリも、それも悪くないと思った。朽ちかけの畑は豊かに実り、痩せ細った家畜たちはみな肥え太り、涸れた川床には清らかな流れが満ち満ちていたから、少なくとも遠慮する理由はないと思ったのだ。長く囚われていた呪いの軛から解放されれば祝わずにはいられないだろう。
シシュミス教団はというと、まるでそこにいないかのように息を潜め、ユカリの立ち去るのを待っているようだった。実際、解呪した後、カルストフ含め、神官たちはほとんど姿を見せなかった。良かれ悪しかれ、教えとは違う結果になったのだろう、とユカリは予想した。
しかしユカリは街の人々の爛々とした目の輝きにこそ臆した。その感謝と祈りの言葉に怯えた。それに、解呪されたとはいえ、ドークを含め、姿を消した者たちがいるのだ。手放しに喜ぶべきでもない。
越境が難しいという境界、残留呪帯についてカルストフに聞きたかったのだが、どのみち話を聞いてくれそうになかったので、ユカリは人々の目を盗んでメグネイルの街を立ち去ったのだった。
時折振り返り、誰もついて来ていないことを確認しつつ道行き、とうとう地平線の向こうに廃れた街が沈んだ時、【微笑みを浮かべて】、魔法少女の姿に戻る。
再び前を向き、東を向き、改めて一歩を踏み出した矢先、道なき道の先に誰かが倒れているのが見えた。ユカリは慌てて駆け寄るが驚いて飛び退く。
人かと思ったが倒れていたのは像だった。その彫像は大きな薄布をかぶった人を表現しているらしい。その輪郭から察するに重責に耐えかねたように膝をつき、多くを失った者のように背を丸めている。その材質は石のようであり、蝋のようでもある。
「なんでこんな所に捨て置かれているんだろうね」とユカリは呟く。
「お食事? 取ってないのですか?」
まただ。ユカリでもグリュエーでもない声に振り向く。やはりマルガ洞の前で遭遇した美しい幽霊だ。ユカリは今度は落ち着いて、臨場感たっぷりの一人芝居を観劇する。
「ああ、そうですね」ユカリにしか見えない女は微笑む。「最近は忙しいので、時間があまり……。そうですね。次は一緒に食事を摂りましょう。ええ、約束です」
言いたいことを言うだけ言って美しい女の幻は消え去った。ユカリ自身にはまるで目の前にいるかのような存在感があったのに、温もりも残さず朝霧のように消え去ってしまう。
ユカリはふと孤独感に襲われ、グリュエーとずっと話していないことに気づいた。
「また幽霊だよ。グリュエー。もう一人、私には見えない誰かと話をしていた。いったい誰なんだろう?」
「ねえ? グリュエー? 拗ねてるの?」
「もう! まさかまた無断でどこかに行ったの!?」
ユカリは一人だった。
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