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結局、残留呪帯とやらが何なのかユカリには分からなかった。カルストフの言によると特別に越え難い境界だが、ユカリはそれらしいものに行き当たることもなかった。
緑色の空のせいで夏の爽やかさは大いに陰っているが、呪いを解く前に比べれば今芽吹いたばかりのように輝かしい野原を行く。新たな時代を喜ぶ人々の街と新たな時代を目にすることのできなかった街を通り過ぎ、誰もいない神すらいない神殿で寝泊まりしながら、ユカリはラゴーラ領を脱した。そしてメグネイルの街での波瀾に比すれば特筆する出来事もなく、亡国クヴラフワの中心地、シシュミス教団が聖地と呼ぶ、救いの手領へとやってくる。
まだクヴラフワの土地がただ一人の優しき王に統治されていた時代には今に名の伝えられぬ大いなる獣の塒として寵愛と祝福を受け、八人の賢き巫女に共同統治されていた時代には遠国でさえ神秘に接した豊かな領土の美名が謳われていたが、今やかつての威光も鳴りを潜め、容赦も敬意もない二つの大国に蹂躙されたままだ。しかしユカリの旅路においてはまがい物の空を除けばグレームル領に呪いらしきものは見当たらず、多少ひもじい思いをしながらも一人旅は順調に進んだ。
グリュエーが黙っているのか、いなくなったのかはユカリにも分からない。時折生ぬるい風が吹くが、それがグリュエーなのかも判別がつかない。結局のところ、話ができないのではいないも同然だ。
ユカリは寂しさに負けて石ころに話しかけたが石ころの方は旅人などと話したくないようだった。誰にも見向きされない大道芸人のようにユカリの足は人恋しさに旅路を急いだ。
そしてとうとう亡国クヴラフワの中心、グレームル領の中心、そこに君臨するかつての王都、交点市にたどり着いた。
「綺麗な街だね。川のための衣装みたい」とユカリは呟くが誰も返事をしてくれない。
北東に並び立つ山々から流れ来る大小無数の小川が僅かなあいだ一本に束ねられ、再び無数の小川に分かれて南西へと流れていく。聖なる結び目川と呼ばれるその結束流域を中心にビアーミナの都は形成されている。
必然的にビアーミナは橋の街である。そして橋はビアーミナの歴史を語り継いでいた。呪いに滅びた後の造りかけのような粗末な橋、諸侯国時代に諸侯たちの寄進によって架けられた八者八様の神々を称える橋、そして王国時代の威光を今に伝える荘重壮麗な大橋。時には後の為政者によって建造物が破壊されることもあるが、圧制者とて利便性に牙を剥くことは稀だ。
それらに反して栄華を極めた王国時代の諸侯に睨みを利かせていた橋でも壁でも水門でもある流麗な城壁『王の船を守る壁』は今や塵に帰り、わずかな痕跡を除いて拡大した街の住居や通りの下に埋もれてしまい、かの真正の王たちの遺物は歴史学者から考古学者の手に渡ってしまった。
そしてかつては血で血を洗う政争に明け暮れた蛇の巣も、今や呪いの領域の中心にあって一切の汚れなき聖地として崇められる聖なる都であり、希望を語り、救済を掲げるシシュミス教団の約束の地だ。
そんな聖なる街をユカリは遠目に木立の陰から眺める。メグネイルの街に比べれば建物は形を保っていて、人も多い。見る限り人口密度はメグネイルの街と大差なく、期待していた活気はないように思えた。宗教都市でもあることを考えれば、それは厳かさの一種なのかもしれないが、ユカリの目には世界の果てを臨む街か、世界の終わりを待つ街に見えた。
その中に明らかに異国の風体、顔貌の者たちがいる。レモニカや、あるいはシグニカでソラマリアの部下として暗躍していた剣士ヘルヌスのような西国風の見目で、誰もかれも体格がいい。そして例外なく剣を佩いている。
ユカリの懸念通り、それはライゼン大王国の兵士たちだった。シシュミス教団の神官カルストフがユカリをライゼン大王国の人間だと疑っていた理由がこれなのだろう。我が物顔で、そして緊張感なく通りを闊歩している。どうやらシシュミス教団と表だって争っているわけではないらしい。
果たしてどうしたものかとユカリは悩む。クヴラフワで何をするにしてもベルニージュたちとの合流を最優先すべきだろう。ならば真っ直ぐにクヴラフワの東の果ての封呪の長城の向こうに戻るべきで、ビアーミナ市に用があるとすれば補給の他にない。既に合切袋は空っぽだ。石ころ一つあれば魔法少女の第五魔法で射出し、兎や狐を仕留めることも可能だが、肝心の獲物が見当たらない。少なくともユカリのお腹は街に立ち寄るように訴えていた。
ユカリが覚悟を決めた時、「ユカリ」と呼び止める声を聞いて立ち止まり、耳への疑いを晴らすべく振り返る。
それは確かにベルニージュだった。炎の如き紅の髪に血の如き紅の瞳、不健康そうな青白い肌の少女が大人びた笑みを見せている。ユカリは自分でもよく分からない言葉をいくつか発しながら駆け寄って、旅の仲間の痩せっぽちな体をひしと抱き締める。幻でも空想でもなく確かにそこにいる。
「痛い痛い痛い」
辛うじて涙を堪え、「どうして?」と抱きしめたまま問いかけるユカリをベルニージュは押し返して答える。
「説明しても信じてくれないかもしれない」
ユカリは惜しむように離れ、しかしその細い腕だけは掴んだまま離さない。
「なんだろう。突然翼が生えたとか? それなら信じられない」
「突然体が動かなくなって、見えない何かに魚みたいに釣りあげられたと思ったら放物線を描いてあの街に連れて来られた」
「それは信じられる!」
ベルニージュだけではない。レモニカもソラマリアもユビスさえも全員が同じようにしてビアーミナ市へと連れて来られたのだという。放物線を描いてクヴラフワを半分横切り、最後には軟着陸できたという。ユカリも同じような体験談を話すとベルニージュは好奇心と悔しさで唸っていた。
どうやってかは分からないが、ユカリだけは見えない何かから逃れることができたためにビアーミナ市を越えて西に飛んで行ってしまったのだろう、とベルニージュは推測した。
「まさかとは思うんだけど……」と言ってベルニージュの燃え立つ紅の瞳が魔法少女ユカリの胸元を飾る紫水晶の首飾りを見つける。
「盗んだんじゃないよ!?」
「そんなこと疑ってないから。もう魔導書を手に入れたの?」
ベルニージュの言葉に少なくない敬意が含まれているのを感じ取ってユカリははにかみながら頷く。
「うん。まだ分かんないことが多いけど魔導書の気配を感じるのは確か」
「後で見せて。さて、行くか。の前になんで変身してるの?」
ベルニージュの視線を追うようにユカリも自分の魔法少女の姿を眺める。
「なんでって、クヴラフワの呪災から身を守るためだよ」
「ああ、そっか」ベルニージュは納得した様子で頷く。「じゃあやっぱり周辺領域は呪われてるんだね。少なくともグレームル領は大丈夫だから変身を解いても良いよ。まあ、その話もおいおいね」
ユカリは変身を解き、いつもの体、いつもの狩り装束に戻った。ただし首飾りの魔導書は変わらずそこにある。合切袋の肩掛けのずれを戻し、靴の心地を確かめて出発する。
「ところでなんで私がここにいるって分かったの?」
「方法は監視の魔術を拵えて。理由は今ビアーミナ市はややこしいことになってるから、だね」
「ああ、ややこしいことに巻き込まれないようにってこと? 持つべきものは優しい友達だね」
「というかビアーミナ市がさらにややこしい存在に巻き込まれないように、だね」
ベルニージュがくすくすと笑い始めるまで、ユカリは自分のことだと気づかなかった。
「ややこしくて悪かったね!」
ビアーミナ市へ向かいながらユカリはベルニージュにややこしいことについて説明される。
ビアーミナ市はシシュミス教団の施政下だ。クヴラフワ衝突以前は各国を代表する八人の巫女と議会が政を執り行っていたが、今は教団の代表による実質的な独裁体制だという。
「良し悪しは脇に置いても独裁体制の方が単純素朴でややこしくなさそうだけど」とユカリは分からないなりに感想を伝える。
「そうかもね。ただそこにシグニカ統一国、というか救済機構とライゼン大王国がやってきてる。そして教団はどちらとも協力関係を結んでる。少なくとも、呪災に立ち向うクヴラフワ救済に関しては」
「それが本当なら良いことだよね」ユカリは神妙な表情で頷く。「どの面下げてって思いはあるかもしれないけど」
呪いを残したのが東のシグニカ統一国であり、西のライゼン大王国なのだ。二国が本当にクヴラフワ救済のために立ち上がったのだとしてもクヴラフワの民には腹立たしい思いがあるだろう。
「実際のところ、機構も大王国も教団の頭の上でお互いを牽制しているだけのつもりだと思うけど」とベルニージュはややこしい言い回しをする。「とにかくユカリは機構を、レモニカは大王国を警戒しないといけない」
「私はともかく、レモニカは大王国に連れ戻されるかもしれないってこと? うーん。でもどうだろ。ソラマリアさんと偶然再会するまで誰も探しに寄越してなかったんでしょ? 呪いのせいか何だか知らないけど」
「それも今では事情が違うでしょ」
ユカリは鈍い自分にため息をつく。「ああ、私のせいか」
「魔導書のせいだよ。とまれかくまれ大王国だって魔導書を欲してる。自国の王女が世界で歴史上最も多くの魔導書を所持している人物の関係者になったなら、少なくともまずはどれくらいの関係なのか見極めようとするはず。どう利用するかはその後だね」
「二つの大国の狭間で運命に翻弄される貴い姫君」とユカリは呟く。
「帰ってきて」とベルニージュが注意する。
「まだどこにも行ってないよ」ユカリは空想に踏み出しかけた足を戻す。「まあまあややこしくて面倒だね。じゃあわざわざあの街に隠れ住んでるってこと?」
「ううん。教団のお世話になってる。教団はワタシたちのことを把握しているし、魔導書に興味ないふりしているけど。実際のところは二大国に対する切り札だと思ってるんじゃないかな。ビアーミナ市から逃げ出すだけなら簡単だけど、その外にはユカリ以外行けないからさ。一応閉じ込められてることになるのかな。教団も機構も大王国も限定的であるけど独自に呪いの中を移動する方法を持っているみたいだから、魔導書を奪われて逃げられたら取り返すのは大変だよ、ユカリ。……ユカリ?」
運命は何故にかくも力なき姫君を弄ぶのか。誰もが羨む美貌を呪いは覆い隠してしまい、誰もが拒む姿を幻視させる。それでいて誰もがその恐ろしい仮装者の力を欲するのだ。
姫君はただ身に降りかかった災い、呪いを解きたいだけなのに、誰もがその選択を否定する。
姫君は否定を否定する。逃れるように旅をする、敵の手から、運命から、欲する者から、拒む者から。仲間たちの力を借りて、姫君は危難を乗り越えていく。
そしてとうとう最後には呪いを、こう、何とかする力を手に入れて、姫君は姫君を誰もが歓迎する新たな故郷へ帰っていくのだ。
「帰ってきて」
「ただいま。みんな」
「帰ってきて」