いつも通りの放課後だった。
廊下を歩く靴音、校舎に残った夏の熱気、遠くの部活の声──
何もかもが、平凡で、変わらない日常のはずだった。
──あいつ以外は。
遥は今日、一言も話さなかった。
少なくとも、蓮司が目にした限りでは。
教室では終始うつむき、ノートを取るふりをして、時々視線を宙に漂わせる。
声をかける者もいなければ、遥自身が何かに応える気配もない。
あの夜──
怒鳴って、泣いて、俺の頬を叩いたあの遥は、どこにもいなかった。
(……沈んでるわけじゃない。潜ってるだけだ)
蓮司は机の上に肘をつき、薄く笑った。
「いい顔だったのにな」
呟いた声は誰にも届かない。
けれど、蓮司の中では、まだその残響がくすぶっていた。
──泣き叫び、喉を焼き、拳を振り上げた、あの瞬間。
蓮司は知っていた。
あれは、遥の「本音」だった。
普段、どんなに飄々としていても。
無視されようが、突き放されようが。
蓮司にとっては関係ない。
欲しいのは、「本物の反応」だ。
遥が感情を押し殺して、静かに座っているだけの今の状態は──
(……つまんねえな)
蓮司の笑みがわずかに歪む。
言葉をかけても、顔色ひとつ変えない。
挑発しても、動揺のかけらもない。
視線が合っても、そこには何も映っていない。
──まるで、抜け殻。
(壊れたんじゃなくて、引っ込めただけだ。なら、また引きずり出すだけ)
蓮司は鞄からスマホを取り出し、何かを探るように親指を滑らせた。
日下部。
やつが、鍵だ。
あの目を見た。
あのときの遥の叫びには、確かに「日下部への何か」が混ざっていた。
──汚した。壊した。信じた。
その言葉の端々に、あの優等生が“罠になる”匂いがした。
(救いになりたがる奴は、いつも一番美味い)
「じゃあ、そろそろ──」
蓮司は立ち上がりながら、スマホを開いた。
メッセージの宛先は、日下部。
【放課後、ちょっと話さないか】
【遥のこと、おまえなら理解できると思ってさ】
飄々とした文面。
悪意は匂わせない。むしろ善意の仮面を丁寧に被せる。
相手が“信じたい”と思っているうちは、手綱を握るのは簡単だ。
(もう一回、焚きつけてやるよ)
蓮司の眼差しは冷たいまま、ゆっくりと細められた。
──あいつが、また「壊れる」まで。
※コイツ(蓮司)……つまんねえ、って誰のせいだよ……。遥のこの変化は気に入らなかったようですな……。