夕方の空が、校舎の壁を薄く染めていた。
人気のない踊り場。
日下部は無言でそこに立ち、扉のガラス越しに蓮司の姿を見た瞬間、わずかに眉をひそめた。
「わざわざ……何の話だよ」
蓮司は、笑っていた。
軽く片手を上げ、歩み寄る。
その動作にまったくの悪意も焦りもないのが、逆に日下部の警戒を強めた。
「おまえ、最近……遥とよく話すなって思ってさ」
「……それが?」
「いや、別に何でもない。ただの感想。観察記録みたいなもんだよ」
蓮司の言葉は、いつもどこか不自然に丁寧で、音に棘がない分、余計に気味が悪い。
「俺、わりと見てんだよ。誰が誰と喋ってるか、とか」
「……気持ち悪いな」
「言うと思った。ありがと」
日下部は苛立ちを隠さず睨む。
けれど蓮司はまったく動じない。
軽く壁に背を預けたまま、ふっと視線を逸らし、続けた。
「……遥って、触れられると崩れるくせに、触れられたがるよな」
「……は?」
「知らなかった? あいつ、誰かが手を伸ばすと、いっつもびくってして、でも……拒まない。あれ、ずっとそうだよ」
蓮司の目は笑っていない。
「おまえが優しくするたびに、あいつは“壊れてく”って分かってるのに、止めないんだ。──まあ、自覚あるかは知らないけど」
「……何が言いたいんだよ」
「簡単な話だよ。おまえが“正しい”と思ってることは、遥にとっては“罰”かもしれないってこと」
日下部が黙る。
蓮司はその間もずっと視線を外さない。
飄々とした口ぶりで、まるで気圧を測るように言葉を垂らし続ける。
「“助けたい”と思ってるだろ、おまえ」
「……」
「その時点で、もうズレてんだよ。あいつは、救われたいなんて思ってない」
日下部の喉がかすかに鳴った。
「むしろ、“罰を受ける理由”を探してる。
誰かがそばにいることすら、罪悪感にして、自分の首を締める。
優しくすればするほど、あいつは……“それに値する理由”をでっち上げて、自分を壊してくよ」
蓮司の声は穏やかだった。
冷たい事実を、ただ淡々と並べていく医者のように。
「おまえが“信じてる”遥なんて、もうどこにもいない。
見てるのは、残像だよ。
あいつの“壊れてない部分”を信じたがってるだけ」
「……っ」
「それでも傍にいるってんなら──止めないけど。
おまえが壊れるのも、ちょっと楽しみだし」
蓮司は小さく笑った。
ただ、目だけはずっと真っ直ぐ、冷たく日下部を見ていた。
「……俺は」
日下部が低く呟いた。
「壊れてもいいなんて、思ってねえよ」
「へえ?」
「壊させない。絶対に、あいつを“おまえみたいなやつ”には、壊させない」
その一言に、蓮司は少しだけ目を細めた。
静かに、愉快そうに口角を上げて呟いた。
「いいじゃん、その顔」
「……」
「遥が、一番嫌がるやつだ」
日下部は何も言わずに背を向けた。
手が、かすかに震えていた。
蓮司はそれを見送りながら、また一つ、仕掛けを打ち終えたという満足気な表情を浮かべた。
(さあ──どこまで保てるかな)