テラーノベル
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鍵のかかっていない扉を、そっと押した。旧図書室。もう使われていない、本棚の多い狭い空間。
教室よりも光が少ない。
窓は半分、木の板で塞がれている。埃の匂いが、やけに濃かった。
(……誰も、いない)
そう思ったとき、
その奥から、声がした。
「やっぱり来たね。遥」
蓮司だった。
窓際の光のすじのなか、開いた本を手にしながら、振り返る。
白いシャツの袖をまくり、ネクタイも緩めたまま。
笑っている。
あの、いつもの──“飄々とした、全部知ってる顔”。
「なにしてんだよ」
「……読書」
遥は返事をしなかった。
そっと、ドアの方に引き返そうとする。
けれど──その先には、いつの間にか別のクラスメイトの靴音。
「ちょっとさ、時間いい? すぐ終わるから」
逃げ場は、塞がれていた。
蓮司はページを閉じた。
「ふぅ」とわざとらしく息をついてから、立ち上がる。
その足取りは軽く、まるで散歩のようだった。
「日下部、戻ってきたね」
遥のまぶたが、一瞬だけ震える。
「ちゃんと話せた? あいつに。おまえの“汚さ”」
「……黙れよ」
「へぇ。じゃあ、まだ夢見てるんだ」
近づいてくる。
狭い旧図書室の空間では、距離なんてすぐに詰まる。
蓮司は遥の肩に指を置いた。
押すでも、叩くでもない。
ただ、そこに“触れた”だけ。
「もう一度、ちゃんと教えてあげないとね。
──おまえは、“信じてもらっちゃいけない側”だってこと」
遥はその手を、はらわなかった。
というより──動けなかった。
蓮司の声が、すぐ耳の奥に落ちてくる。
「……昨日さ、日下部と何話したの?」
「……別に」
「そう。あいつ、何にも知らないもんね。
この教室で何が起きてたか。
──おまえが、何を“されてた”かも」
「……」
「知ったら、どうすると思う? 日下部」
蓮司は笑っていた。
でもその目だけは、まったく笑っていない。
「守ってくれる? ほんとに?」
「……そんなこと、知らねえよ」
「そっか。でもね──」
声が急に低くなる。
「“知らない”ってことは、日下部は、“加担してない”って思ってんだ。
でも違うよな。
あいつが休んでたから、クラスが助走つけて地獄になったんだよ。
おまえが“壊れるように”って、空気が決まったんだよ。
それ、ちゃんと教えてやんなよ。あいつのせいで、
おまえの“はだか”見られたんだって」
遥の背筋が、びくりと震える。
蓮司の手が、ゆっくりとシャツの裾をつまむ。
「ほんと、あの目で見られて、“信じたい”って顔されると、
おまえ、すぐ壊れそうになるよな」
「──やめろ」
「なにを? 触るの? それとも、言葉の方?」
「……」
「おまえは、“やめろ”って言えたっけ?
昨日も、一昨日も。教卓の前で泣いてたときも──
ほんとのほんとに、“やめろ”って言えたの?」
遥は拳を握る。
でも、その手は震えていた。
蓮司はそれを見て、
くしゃりと笑った。
「じゃあ、今日も“やってみようか”」
「……っ」
「教えてやんなよ、遥。
“俺、こうやって笑われてるのが日常なんだ”って。
“守られる資格なんてないから、見捨てていいよ”って──」
その言葉の途中で、遥は蓮司の手を振り払った。
──ように、見えた。
けれど、それは本当に“意志”だったのか。
それとも、
どこかで「こんなふうにしてほしい」と思っていた、
蓮司の期待に応えてしまっただけだったのか──
蓮司は、そのわずかな動きを見逃さない。
「ほら、やっぱり──おまえ、ちゃんと“自分で選んだ”じゃん」
そして、静かに旧図書室の扉を開く。
「教室、もうすぐ空くよ。
人、呼ぼうか?」
遥は、その場から動けなかった。
“また壊される”──そうわかっていたのに。
声も出せず、ただ、
自分の心が、
“ほんとうに守ってほしいもの”の形を忘れていくのを感じていた。
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