テラーノベル
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結局終バスで帰り、落ちて来そうな満月を見ながらフラフラフラフラ家を目指す。
家からは微かに琴の音がする。お弟子さんか母か、まだ起きているなんて珍しい。
昨日の夜は、曇っていて月が隠れてはまた顔を出す、そんな淡い時間だった。
一瞬の瞬きをした間の出来事のような、暖かいぬるま湯に抱き締められているような、春の夜の出来事だった。
今でも月の光がうっすら入り込むと、優しくキスしてくれたあの感触を思い出す。
彼の首筋から香る、柑橘系の爽やかな香水の匂いも思い出すと胸が締め付けられる。
はやく忘れなきゃ。あの感触と匂いと優しい笑顔を。
連絡先もワンピースももう、無いのだから。
ジワリと広がる涙を払いのけながら歩く。
一夜だけじゃなく、そう夢見てしまいそうで自分が惨めになる。
「お姉ちゃん」
玄関に居るのは、稽古着姿のままの美鈴だった。
美鈴は、私を見るなり大急ぎで駆け寄ってきた。
真っ青な姿で。
「さっきまで、ずっとずっと待ってたんだよ! お母さんが連絡しなくていいって私見張られてて。でも、明日から忙しくなるから今日しかもう会えないって言ってたの。でもお母さんがもう遅いからお引き取り下さいって、なんだか二人ともピリピリしてて」
「落ち着いて。何の話か分からないよ」
泣きだしそうな顔の美鈴は、キッと私を睨むと紙袋を押し付けてきた。
「デイビットさんだよ!」
かさりと紙袋の中から音がした。
「私、戻らなきゃ」
庭を走り抜ける美鈴を視界の隅で捉えながらも、紙袋の中を確認すると胸に抱いて方向転換すると走る。
今まで此処に居た?
私を待っていた?
もう会えなくなる?
不安な言葉ばかりが頭を過る。
走って走って走って、バス停まで戻ってきても車なんて一台も見えない。
急いで大通りまで駆けだそうとして、足がもつれて転けてしまった。
抱き締めた紙袋から、私が汚したはずのワンピースが飛び出す。
クリーニングされてビニールに入れられたまま。
一緒にまたメッセージカードが入っていた。きっと美鈴はこれを見たから慌てて私を待っていてくれたんだ。
『この服を見て時々は私を思い出して下さい』
擦りむいた足が痛い。
痛くて痛くて、ズキズキして胸が痛い。
自分で転けたのに。
忘れるって決めたのに。
会ってどうするつもりだったんだろう。
なんでデイビットさんは私に会いに来てくれたの?
服の為だけ?
『私が負けたら、その服も靴も返品します。でも 、私が勝ったならば、このプレゼントを受け取 ってくださいね』
雨の日の賭けで私が負けたから、届けてくれたの?
分からなくて、胸が痛かった。締め付けられる。
たった一晩で私の心も身体も掻っ攫われた。乱された。
――今も貴方の残り香を探してしまう。
たった一文だけなのに、その言葉で私は子供みたいに大声で泣いた。
いつ会いに来てくれるのかと毎日思わなくていい、もう時々思い出すだけでいいんですね。
嗚呼、貴方は私に泣く声もくれたのね。
大きな満月が落ちて来そうな春の夜。
追いかけてももう追いつけないのなら、満月に潰されて消えてしまいたいぐらい自分の無力さに涙が溢れて来た。
これが恋なんだ。胸を鷲掴みされて、心を凌駕されて、全て捧げてしまいたいこの気持ちが。
貴方は、私に一杯初めてをくれました。
私に、鳥籠に鍵かかっていないことを教えてくれて、選ぶのは私だと手を差し伸べてくれました。
手を取った事は後悔しません。
広い世界を一部だけでも見せて貰ったから。
ただただ今は、祈るばかり。
私みたいな子を抱いたことで遊び人だと噂されないように。
春の夢のように隠れて、皆の記憶から忘れますように。
春の夜の 夢ばかりなる 手枕(たまくら)に
かひなく立たむ 名こそ惜しけれ
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篠原愛紀