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それは八十代の末期の肺癌患者で、余命一週間程度と診断されていた。数日後にも家族に来てもらい、最後の看取りをしてもらう算段になっていた。
とは言え息があるうちは、医者の責任は終わらない。案の定停電で機械式の固定酸素吸入器は止まっており、亮介たちは急いで携帯式のボンベ型酸素吸入器と付け替えた。
外科病棟では急を要する患者の措置はそれぐらいだった。医療品の保管庫では棚の一つが転倒していて薬品の瓶が床に散乱し、いくつかは割れていた。
亮介と看護師たちは病室や保管庫、廊下に散乱した物品を片づけにかかり、ざっと終えあるだけでも一時間近くを要した。
片付けが終わった頃に院内の電気が復旧した。だが送電が回復したわけではなく、病院の自家発電装置が作動したからだと事務長がやって来て告げた。
亮介は救急処置用の器材、医薬品を治療室に運び込み、緊急搬送されて来る患者に備えた。
この時は停電でテレビが映っていなかったため、地震の規模や被害の様子などは病院内の誰も詳しく分かっていなかった。
だが、耐震構造であるこの病院でさえあれほどの揺れに翻弄されたのだから、重傷を負った近隣の住人が多数担ぎ込まれる事を亮介は予想していた。
地震発生から一時間半ほど経った頃から、近所の住人が一人また一人と、自力で、あるいは家族や隣人に抱えられて来院した。
患者たちの話では屋根の瓦が振動で吹き飛ばされるように落下した家が多いようだった。
うち一人は落下した屋根瓦に頭を直撃され、胸まで血で真っ赤に染まっていたが、幸い傷はさして深くはなく、縫合の必要もない軽傷だった。
その間に遠くから「ゴゴゴゴ」という地鳴りと雷鳴が混じり合ったような轟音が病院の建物の中まではっきり聞こえる程響いた。病院の中の全員が大規模な余震かと思って身構えたが、揺れは襲って来なかった。医師と看護師は「何の音だったんだ?」と言葉を交わしながらも、目の前の患者の治療に忙しく、それ以上考える余裕はなかった。
地震発生から二時間ちょっと経ったところで、駆け込んできた負傷者全員の処置が終わった。医師たちは救急車による重症者の搬送が相次ぐ事を予想して身構えていたが、この間救急搬送受入れの要請の電話は一度も鳴らず、外科担当の亮介はむしろ拍子抜けした気分だった。
亮介は消化器外科担当の先輩医師とこんな会話を交わした。
「救急車、全然来ませんね。大して怪我人は出なかったんでしょうか?」
いぶかる様にそう言った亮介に地元出身の先輩医師は応えた。
「この辺は田舎のわりには災害対策が進んでいるからな。そうだといいんだが」
午後五時を回り、医師や看護師を一時的に帰宅させるべきかどうか院長が考え始めた頃合いをまるで狙ったかのように、救急車のサイレンが小さく聞こえ始め、徐々にその音が大きくなり始めた。こちらへ向かっている事は確かだったが、事前の連絡はなかった。
首を傾げながら院長と亮介を含む数人の医師が病院の玄関へ駆けつけた。市の消防署の支所の一つから来た救急車だった。
ストレッチャーに乗った患者は全身がすっぽり濡れていて、しかも泥まみれだった。院長が病院内に運び込もうとする二人の救急隊員の前に立ちふさがる様になって言った。
「ちょっと君たち、うちは緊急搬送の連絡はもらっておらんが?」
救急隊員のうち太って眼鏡をかけた方が青い顔で早口でまくし立てた。
「いや、一時間も前から数えきれない程の回数電話しとりますよ! 全然つながらんのです」
それを聞いた全員が「あっ!」と叫び、院長はスタッフ全員に電話がつながるかどうか確認するよう指示した。
亮介は院長と共に、とりあえずその患者を受け入れる用意を始めた。七十代らしき男性で意識はない。
「これはどうしたんです?」
患者の状態がどうしても理解できず、亮介は救急隊員に訊いた。
「津波ですよ。聞いていないんですか?」
その答に亮介は仰天したが、院長は黙ってうなずいていた。
「しかし、どこで津波に?」
そう問う院長に、救急隊員は自分も信じられないという口調で答えた。
「老人福祉会館ですよ。ほら、みんながヨッチャン・ランドとか呼んでる」
「そんな馬鹿な!」
今まで落ち着いていた院長もさすがに顔色を変えた。
「あそこは海岸線から二キロは離れているはずだろう?」
もう一人の痩せぎすの救急隊員はストレッチャーを押しながら泣きそうな声で言った。
「だから来たんですよ! そんな所まで津波が。ヨッチャン・ランドの建物は骨組みしか残ってねえ。あそこで一体何人が津波に呑まれたか、見当もつかねえ」
患者は幸い目立った外傷はなく、溺れて意識不明になっているだけのようだった。胃の洗浄を亮介が救急治療室で受け持ち、院長は受付のある一階のスペースで電話機と格闘している医師、看護師の元へ駆け寄った。
「電話は通じたかね?」
そう問いかけた院長に、全員が首を横に振った。自分の携帯電話で片っ端から登録して番号にかけていた医師の一人が「これもダメか!」と苛立たしそうに叫んだ。
院長から津波が内陸二キロの地点まで到達したらしいと聞かされた看護師長の宮田が、すぐさま市街地図を取り出して来て机の上に広げた。