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手近にあった赤いマジックペンで、地図上に大体の線を引く。
「この一帯が津波にやられたって事かしら?」
宮田がそう言うと、みな口々に不安の声を上げ始めた。
「俺たちの家はどうなんだ?」
若い女性看護師が一瞬ハッと息を呑んで大声を上げた。
「ねえ、うちの副院長と薬剤課長の森田さん、今日は非番で釣りに行くって言ってなかった?」
全員が「あっ!」と叫んだ。誰かが震える声でつぶやいた。
「もし釣り船で沖に出ていたら……」
さらにベテラン医師の一人が地図の一点を指差して怒鳴った。その指は赤で囲まれた場所にあった。
「消防本部はここだ! だったら津波で……」
院長が不気味な程落ち着いた口調でつぶやいた。
「緊急搬送の要請が来なかったのは、患者が出なかったからじゃなく、救急車を呼べないから。そういう事か」
さっき運び込まれた患者の処置を終えた亮介の所へ看護師長の宮田がやって来て、すぐに院長室に集まるよう告げた。
亮介が駆けつけると、その時点で院内にいた医師、看護師の全員が既に集まっていた。自分の机をはさんで部屋にひしめくスタッフに向かって院長は額に深い縦皺を作りながら重々しく切り出した。
「これから当病院では、トリアージを行っていただきます」
「ちょっと待って下さい」
熊のように体格のいい児玉という内科医が言った。
「そんな事は最初からやっていますが?」
院長は机の引き出しから五十センチ四方はある大きなプラスチックの箱を取り出しながら言葉を続けた。
「単なる生死確認、病状確認の事ではありません」
院長は箱の蓋を全開にし、中身を全員に示しながら言った。
「これを使うトリアージの事です。牧村先生」
そう言って院長は亮介の顔に視線をあてた。
「先生はこれをよく知っているはずです。そうですな?」
箱の中には、患者識別のために手首や足首にはめるゴムの輪になったバンドが多数あった。箱の中の仕切りの反対側には、三センチかける二センチ程の大きさのタグ。
色は緑、黄色、赤、そして黒。小さなタグが無数に詰め込まれていた。
亮介の脳裏に、大学卒業直後、海外の紛争地でのボランティアに出かけた時の記憶が鮮烈によみがえった。
「こら、そこ! その患者は不処置だ。何度同じことを言わせんだよ!」
あれは南アジアの熱帯の辺境地帯。内戦で発生した負傷者を救助する国際医療チームに志願して言った亮介は、血まみれで助けを求める一群の負傷者たちの列からどうしても離れられないで、同じ大学の先輩、三つか四つ年上の女医に何度も怒鳴られた。
長い髪をポニーテールにくくった、けっこう美人だが男のような口のきき方をする事で有名なその先輩は、亮介の左腕をつかんで引きずった。
「タグが黒は不処置、赤が最優先。いつになりゃ分かるんだ!」
だが、亮介には頭では理解していても、どうしてもこの光景を受け入れる事が出来なかった。手首に黒いタグのついたリストバンドを付けられ、そのまま地面に寝かされて、苦痛のうめき声を上げ続ける負傷者たち。
トリアージは、患者、負傷者全員を救命する事が物理的に不可能な状況下で、症状、重傷度に応じて選別する作業。
かすり傷程度の者は緑。医療措置を要するが比較的軽傷なら黄色。医療措置を要し、かつその場その時の医師の数、医療装備などの条件で救命可能な者は赤。
そして極めて重傷で、かつその条件下では救命不可能と判断された者は黒いタグをつけられる。そして治療を受けられる事もなくそのまま放置される。見殺しにするのだ。
その場の医師のマンパワー、薬品、医療器材、その制約の下で助かりそうな命だけを救命し、本来なら真っ先に緊急手術などを行わなければならない者を黙って見殺しにする。そうしなければ、黒と赤、両方のタグの負傷者が全員助からなくなるからだ。
そんな事は分かっていた。知識としては理解していた。だが現実にそういう場面に遭遇した時、亮介はどうしても目の前で放置され見殺しにされている負傷者を見捨てられなかった。
赤のタグが付いた負傷者が集められているエリアまで亮介を引きずった先輩女医は、亮介のシャツの胸ぐらをつかんで目を吊り上げた怒りの表情で言った。
「いいか、坊や。弾が飛び交ってなくても、ここは戦場の一部なんだ! 戦場って極限状況じゃ、人を殺すのも医者の仕事のうちなんだよ!」
結局亮介は三日でその現場から逃げ帰った。その時の苦い記憶を思い返しながら、亮介は呆然とした表情で、院長が見せるトリアージ用のキットを見つめた。
まさか日本で、こんな所で、またあれが起きるのか? 亮介の背筋を、寒さからではない、何か冷たい物が次々に走り抜けた。