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“五条悟の嫁も顔を出すらしい”
「ああ、聞いたことあるよ。嫁は“一般家庭出身の猛獣使い”なんだって?」
「六眼も堕ちたもんだ。血の重要性も理解せず、わざわざ一般人と結婚するなんて」
「猛獣を使役するの?…汚らしい術式だわ。きっと本人も獣の臭いがするんでしょうね」
足を踏み入れてすぐそんな噂話が聞こえる、呪いの煮凝りみたいな呪術界最大の新年会IN五条家に嫌々参加した俺は、帰りたくて帰りたくてたまらなかった。
五条家当主の挨拶まではまだ時間があるのに、早くに集まった人々は群れを成して噂話に興じている。低級呪霊のようなその生態には反吐が出そうで、ズレる眼鏡をぐっと持ち上げてみても、モチベーションは全然上がらない。
おまけにうちのジジイどもは顔を合わせれば嫁の目星はついているのかとうるさいし、血筋はどうだの、術式はどうだのと、余計なお世話も甚だしい。
俺は決めているんだ。結婚するなら、出自も術式もどうでも良い。笑顔が素敵な、優しい女性にしようって。
けれどそれはそれ、これはこれ。
入り口で聞こえた噂話に、興味がないと言ったら嘘になる。
“五条悟の嫁も顔を出すらしい”
素晴らしい術式を持つ女も、五条の家に相応しい名家の女も、あるいはどんなに見目の麗しい女でさえもコケにしてきた五条悟が、昨年結婚した。
それは瞬く間に呪術界に広がりさまざまな憶測を呼んだが、相手の噂はあまり伝わってこなかった。
唯一、どこからともなく漏れ聞こえてきたのは、“一般家庭出身”の“猛獣使い”ということだけ。
呪術界は狭い世界だ。それなのにここまで情報が流れてこないところを見ると、あえて、誰かが、彼女の存在を意図的に隠しているとしか思えない。
そのベールに包まれた神秘的なところもまた、彼女がたびたび噂にあがる一因でもあった。
”五条悟の嫁は、一般家庭出身の猛獣使い”
だから、出自を指す「一般家庭出身」と、術式を指す「猛獣使い」と、誰も彼もがその2つの言葉だけで彼女を知ったように語り、罵り、僻みと侮蔑を込めて嗤うのだ。
『ああ、あの、一般家庭出身の猛獣使いね』と。
…かく言う俺も、その2つしか彼女のことは知らないけれど。
一方、五条悟とは1度だけ、任務で一緒だったことがある。最強を驕って偉そうに振る舞うでもなく、上に媚びるでもなく、ひとつひとつの指示や命令がとにかく淡々としていた。強い言葉は使っていないのに、けれど五条悟には、はい、と言うことを聞いてしまうような、なんとも言えないオーラがあった。隣に立てばひしひしと伝わる強大な呪力に、思わず身が竦んだことを今でも覚えている。
アレは人というよりは、神に近い何かだ。神にのみ従う神獣。あるいは彼自身が神なのだと言われた方が、よほどしっくりくる。
五条家当主、特級術師、無下限呪術と六眼を合わせ持って生まれた、稀代の最強呪術師。
そんな男が生涯の伴侶として選んだ女性に、みなが興味を持っていた。
一体どんな人なのだろう。
たとえば…そうだな、俺の中のイマジナリー五条の嫁は、旦那の3歩後ろをしずしずと歩くような女性だ。神官か巫女か、神にその身を捧げるように敬虔に、五条悟と五条家に従う女性。
…笑ったところなんて見たことない、なんて言われてしまうような。
あー……気持ち悪い。やっぱり酒は苦手だ。何でみんなあんなに飲みたがるんだろう。
宴会場に入ってすぐ、飲むまで許さないとばかりに狸ジジイどもに詰め寄られて、ひと口舐めたらこのざまだ。
夜風にあたろうとフラつく足で廊下へ出るが、何年か前に一度だけ来たことのある五条邸はあいかわらずバカみたいに広くて、長い長い廊下には、似たような襖がずらりと並んでいる。むしろ迷わせようとしてるとしか思えない。
……くそ、視界がぐらんぐらんする。
適当にしばらく歩いてとうとうへたり込んだ俺に、背後から気遣わしげな声がかかった。
「…どうかなさいましたか?」
ああ、助かった。僥倖のような存在に振り向けば、着物を着た女性が心配そうに俺を見ていた。
少しくすんだ水色の着物に、清楚な白い鈴蘭模様が美しい。帯は薄いピンクで、白い帯締めの真ん中では、水色の玉が控えめに輝いている。
……きれいなひとだな。
下ろしたての石鹸、洗いたてのシーツ。手にとって、顔を近づけて、思わず香りを嗅ぎたくなるような…
「? あの、大丈夫ですか?」
ついしげしげと眺めてしまった。反応のない俺を、女性が不安そうに身を屈めて覗き込む。さらりと彼女の前髪が流れて、微かに甘い香りがした。
「う、あ、えっと…すみません、風にあたろうとしたら迷ってしまって。酒に弱いもので…お恥ずかしい」
しどろもどろの俺に、女性が優しく微笑んだ。
「そんなことないですよ。強ければ良いというわけでもありませんから。休める部屋にご案内いたしますね。…渾ちゃん、手伝ってくれる?」
彼女の呼び声で影から現れたのは、巨大な狼だった。
し、式神か…?
危なげない足取りで二足歩行するその獣は軽々と俺を横抱きに抱えて、指示を待つように女性を見下ろした。
女性は狼に視線をやると、ちいさく頷いて狼の腕をそっと撫でる。
「お客様を安全にお連れして」
ふわりと顔に当たる狼の被毛からは、お日様の良い匂いがした。
「ありがとう、渾ちゃん」
俺をソファに座らせた渾に、彼女がにこりと微笑んだ。渾は甘えるようにクゥンと鳴いて、彼女が撫でやすいように頭を下げた。小さな手が毛皮に埋もれてわしゃわしゃと動くと、撫でられた渾は、嬉しそうに尻尾を振っている。
「本当に、お手数をかけて申し訳ない。…五条家の方でしょうか?」
運んでもらって少し体調が落ち着いた俺が狼とは別の意味で頭を下げると、彼女は初雪が溶けるみたいに淡く微笑んだ。
「申し遅れました、五条ナマエと申します。気にしないでください。身近に下戸がいるので、ご心労お察します。…みなさん勧めるのがお上手ですものね」
そう!そうなんだよあの狸ジジイども!酒が飲めなきゃ成人に非ず、と言わんばかりにグイグイ来やがって。りっぱなアルハラだっつーの!
と心の中で罵ってはみたけれど、俺はごくんとその言葉を飲み込んで「いや、まぁ、ハハ」と笑うに留めておいた。身近に下戸がいるならば、彼女だってそういう事情は知っているし、うんざりしていることだろう。
俺は名も知らぬ彼女の身近な人物に、少しだけ親近感を抱いた。
ひとしきり撫でられた渾は満足した様子で、チョコレートみたいに溶けて消えていった。
「脱兎、出てきて」
彼女の声に、真っ黒なウサギが一羽影の中から飛び出して、長い耳をぴくり動かす。
「お水を持ってきてもらえる?」
屈んでウサギと目線をあわせた彼女が、そのまろい頭をひと撫ですると、ウサギは小さく頷いて、狼と同じように消えていく。
「何から何まで…すみません」
「いえ、私こういう術師がたくさん集まる会は初めてなので落ち着かなくて。…実は休憩の口実ができて、少しホッとしているんです」
照れたように彼女が笑った。
あ…かわいい。
俺の好みのタイプは、笑顔の素敵な優しい人。彼女のそれは、理想にふんわりと重なった。
…良いな、呪術界にもいるんだな。こうやって笑う人が。
同時に、その物言いから、彼女が既婚者であることが分かってしまった。
苗字を五条と名乗ったナマエさんが生粋の五条家生まれなら、あるいは術師の家系なら、こんな集まりは慣れているはずだ。初めてと言うことは一般家庭出身で、結婚でもして五条家に入ったのだろう。かわいそうに俺の恋は、わずか1秒で終了だ。
それにしても、一般家庭から五条の家に入るのは、きっと大変だったろう。呪術界はそもそも閉鎖的なところだが、御三家ともなるとそれに輪をかけて他を拒絶するところがある。親戚や縁者を含めれば人数も多いから、当主の五条悟が彼女の顔と名前を覚えているかどうかも怪しい。
…にこにこしたナマエさんなんて、五条の家に良いように使われた挙句捨てられてしまうんじゃ…
老婆心にも庇護欲にも似た気持ちが沸々と湧き上がる。ナマエさんの結婚相手はちゃんと、彼女を守ってあげているのか。
…けれど、たぶんそれは心配ないのだとも思う。
俺の勘が正しければ、俺の庇護など必要ないほど、ナマエさんは優れた術者だ。
式神は術者をうつす鏡のようなもの。自分の実力以上の式神を使うことはできないから、式神を見れば術者の実力がある程度分かる。
渾という式神、そうとう強い。彼女は俺よりも、格上の術者だ。
狼と、兎、もしかしたら他にも使役できる動物がいるかもしれない。
…差し詰め彼女は猛獣使いだな。
心の中でひとりごちで、はた、と思い至る。
『五条悟の嫁は、一般家庭出身の猛獣使い』
そして確か五条悟もまた、下戸だったはずだ。
『身近に下戸がいるので、ご心労お察しします』
いや、でも、まさか。イマジナリー五条の嫁とはひとつも重ならない。優しくて親切で、こんなに綺麗に笑う人が、彼女が、あの、五条悟の嫁?
五条悟は淡々していた。淡々と、呪いを祓う。およそ人の世になど興味のない、神獣か神のようだった。
……そんな男でも、この笑顔を好ましいと思ったのだろうか。
彼女の左手の薬指では、シルバーの指輪が鈍い輝きを放っている。
すると、ブルブル…バイブレーションの音が響いた。失礼します、と手慣れた様子で帯の中から携帯を取り出して画面を確認した彼女の顔が、僅かに綻んだ。
「すみません、少し席を外しますね」
そう言って、ナマエさんが入り口へと踵を返す。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
待って、まだ聞きたいことがある、急いた気持ちで、俺は思わず彼女の手を掴んだ。
ナマエさんの目がわずかに驚きで見開かれて、ゆっくりと2回、瞬きをする。
「あ、あの!不躾な質問で恐縮ですが…ご結婚されてらっしゃる…?」
指輪は、オシャレでしているだけかもしれない。五条の家に入ったのだって、養子縁組とか…何か別の事情があるのかも知れない。
そう願いを込めて聞いてみたが、彼女は女神のような笑顔ではいと肯定した。
「去年しました」
五条悟が結婚したのも…去年だ。揃えたくないパズルのピースがカチッとハマる。
「え、と…身近にいる下戸というのは、旦那さんのことでしょうか…?」
「あら、よく分かりましたね、そうなんです。主人はお酒が飲めなくて」
パズルのピースがもうひとつ。カチッ。不穏な音を立ててハマる。
「ナマエさんの式神、素晴らしいですね。…も、もしかして、猛獣使いなんて呼ばれていたり…します?」
ああ、とナマエさんが頬を染めた。
「ありがとうございます。でもあの子たちは借りている子なんです。猛獣使いは私の学生時代のあだ名で、術式とは関係ないんですよ。友人がそう呼ぶのが変な風に広まっちゃったみたいで…」
カチッ。予想とは少しズレたが、パズルのピースがハマったことに変わりはない。
「その、ナマエさんのご結婚相手は…」
五条悟さんですか?そう聞こうとした自分のまつ毛を、ヒュンと呪力の塊が掠めていく。
襖の向こうから放たれたそれは俺のまつ毛を焦がして、向かいの壁に小さな穴をあけた。パラパラと崩れた土壁からは、薄らと煙が上がっている。
「「…え?」」
穴の空いたそれを確認して、自分とナマエさんは顔を見合わせた。お互い目を丸くして次の言葉が出てこない。
木と木が滑らかに擦れて、襖がゆっくりと開いた。ぞくりと背筋に悪寒が走る。まるで地獄の門が開く様を見せられているようだ。
現れた男は氷のように冷めた双眸で俺を見下ろして、けれど次の瞬間には何事もなかったかのようににこりと笑った。
「いやぁごめんごめん、手元が狂っちゃった。…羽虫に当てるつもりだったんだけど」
…羽虫ってまさか俺のことじゃないよな?
まつ毛の焦げた不愉快な臭いが、ツンと鼻をつく。
「ご、五条悟……」
「こんばんは。もしかして、“僕のお嫁さん”がお世話になっちゃった?」
カチッ。
※※壁に穴があく1時間前※※
「恵、悪いんだけどさ、僕ちょっと抜けるから、その間ナマエに渾を貸しといてくれない?」
悪いんだけどさ、なんて殊勝な言葉がこの人の辞書に載っていることと、それが自分に使用されたことに少し驚きつつ、俺は首を縦に振った。
「良いです…けど、どうかしたんですか?」
今日は五条邸にさまざまな術師が集う新年会で、昨年籍を入れた五条さんとナマエさんが初めて2人揃って出席する呪術界の会合でもある。
「んー…ちょっと上からのお呼び出し。新年早々嫌になっちゃうよねぇ。僕に嫌がらせする分にはぜーんぜん構わないんだけど…ナマエにまで手を出さないとも言い切れないからさ」
五条さんは敵が多い人だから、来客の中にナマエさんを狙う術師や呪詛師が紛れていないとも言い切れない。五条さんがナマエさんのそばを離れるなら、それは敵にとって1番のチャンスだ。
そんなもしもの時に、渾ならば少しは役に立つだろう。
本当は俺がくっついていられたら良いのだが…禪院家当主の立場上、それがいつでも叶うかはわからない。
「わかりました。行ってらっしゃい」
「うん。ナマエをお願いね」
五条さんがポンと俺の肩を叩いて、申し訳なさそうに笑った。
「?」
平素はゴーインにマイウェイを突き進む恩師の、珍しくしおらしい様子に一瞬はてなマークが浮かんだが、すぐにああ、と思い至る。
『術師が術師にするお願いは、“一緒に命を賭けて下さい”が前提だろーが!!』
以前秤さんが言っていた。
破茶滅茶なわがままは言うくせに肝心な“お願い”はしてこない五条さんが、『お願いね』と大切な人を俺に託した、その意味。
はるか遠く、いつも追いかけるしかなかった背に、少しは近づけたと思って良いだろうか。
「…頑張ります」
「頼んだよ」
親のいない俺たち姉弟にとって、ナマエさんは小さい頃からあれこれ世話を焼いてくれた、姉のような、母のような存在だ。
心から、幸せになってほしいと願っている。
※※壁に穴があく10分前※※
悟様がもうすぐお戻りになるそうです、と、五条家の老爺が俺に耳打ちをした。
何事もなく五条さんの不在を乗り切れそうだ。小さく、安堵の息を吐く。
張り詰めていた力をわずかに緩めたそのとき、ナマエさんの影の中に入れていた渾が呼びだされた。どうやら誰かを運んでいるらしい。
五条さんの帰宅を待つべきか?いや、俺がここを抜け出して行った方が早いか…?
とはいえ禪院の当主にぜひ挨拶を、と言うやつらに捕まって、さっきから1ミリもここを動けていない。
…優先順位を考えろ。こいつらは適当に撒いてナマエさんのところに行くべきだ。
渾が抱えた人物が、弱ったフリをして彼女の命を狙う、術師や呪詛師でないとも限らない。
渾も他の式神たちも、ナマエさんにはよく慣れているから、渾に加え、逃走用に脱兎を貸し出して、好きに使ってくださいと伝えてある。ナマエさんも術師だし、すぐにやられることはないと思う…けれど。
懸念点が……もう一つ。
100歩譲ってただの怪我人や病人だったとしても、五条さんの地雷に触れそうな、大きな懸念。
ナマエさん、誰ですか、その運んでいる奴は。男ですよね。五条さんが知ったら絶対機嫌悪くなるじゃないですか。
恩師の、嫁に対する独占欲は酷いのだ。よくもまぁ通報されず見捨てられず、結婚まで辿り着けたものだと、賞賛さえ送りたくなる。
その裏で振りかざされてきた“最強”の権力はまあ…決して褒められたものではないけれど。
目の前で立て板に水の如く喋り続けるおっさんに断りを入れて踵を返すと、見知った強い呪力が現れた。そちらを振り向けば、他よりも頭ひとつふたつ大きな五条さんが、俺の方へ真っ直ぐ歩いてくる。
「恵、ただいま。大丈夫だった?」
「五条さん、おかえりなさい。あの、ナマエさんなんですが…」
かいつまんで今の状況を話すと、五条さんは空色の目をきゅっと細めて仄暗く笑った。
「へぇ…場所は?」
背中がゾクリと震える。渾が抱いている人物が加害者であろうとなかろうと、まず間違いなく被害者になるだろう。
「…西の離れです。あ、ちょっと待ってください脱兎がナマエさんから離れました。……ナマエさんに、水を持ってきてと言われたそうです」
「ハァ?」
※※そして壁に穴が空いた後※※
「こんばんは。もしかして、“僕のお嫁さん”がお世話になっちゃった?」
だったらお礼しないとね、形の良い唇が艶やかに輝いて、耳障りの良い声が紡がれる。
軽い口調とは裏腹に、五条悟が不機嫌なのは明白だった。以前はアイマスクで隠れて拝むことさえなかった六眼は今は剥き出しで、本当に空みたいな綺麗な水色をしていた。けれどその瞳の奥、神の領域にも似た空の奥、宇宙みたいな部分が、暗く濁っている。
「……その手はどういうつもり?」
ねめつけるような視線が、ナマエさんの手を握る俺の手に注がれた。
「あ、し、失礼しました」
俺が慌てて手を離すと、五条悟の口元に不気味な笑みが浮かぶ。水色の虹彩をスイと細めたその様は、どこに牙を立ててやろうかと舌なめずりをする大型の獣のようだ。
肉食獣に襲われた草食獣の気持ちが、今ならわかる。獣の長く鋭い爪が、自分の手足を鷲掴んだときの、その絶望感が。
「僕はどういうつもりかって、聞いてるんだよ」
五条悟の呪力がズン!と重たくなって、俺の上にのし掛かった。骨がみしりと軋む。とっさに呪力で受け止めたまでは良かったが、少しでも気を抜けばぺちゃんこになってしまいそうだ。
「ゔっ……!」
「早く僕の質問に答えなよ」
いや無理だろ……!!全神経を集中して押し潰されないように呪力を練っているのだ。喋る余裕など無い。喋れば受け止める呪力が足らずに圧死、喋らなくてもこのまま呪力切れで圧死。どちらにせよその先にあるものは死以外にない。
そんな張り詰めた空気を破ったのは、咎めるようなナマエさんの声だった。
「具合が悪そうだったから介抱しただけよ。お客様をそんなに威嚇しないで」
「やだなぁ、威嚇なんてしてないよ。ナマエがお世話になったなら“お礼”をしないといけないから、聞いただけ」
俺から視線を外さず、五条悟がナマエさんに軽い口調で答えた。
「そのお礼が問題なの。悪い意味のお礼参りみたいでしょ」
「それは受け取り方次第だね」
「悟」
「……わかったよ。僕が悪かった」
彼女が「悟」と名を呼んだ途端、彼の目に明るい光がともる。
五条悟が降参とばかりに両手を上げてハァと息を吐くと、重たい呪力は一瞬で消えてなくなった。
…す、すごいな。
「はい水。キミでしょ、必要だったのは」
呆気に取られる俺に無造作に放り投げられたペットボトルは、しかし綺麗な弧を描いて手の中に落ちてきた。
「あ、ありがとうございます」
その様子を見届けた五条悟は興味をなくしたように俺から視線を外し、大股で一歩、二歩、とナマエさんに近づくと、彼女の目の前で目線を合わせるようにその長身をかがめた。
「ナマエもさー、他に何か言うことあるんじゃないの?ラインは既読つけてスルーだし。お前のGLH(ジーエルエイチ)が急いで帰ってきたのよ?ほら、ほらほら」
ほら、と言うたびに、五条悟の顔がナマエさんに近づいていく。3拍分たっぷりキョトンとしたナマエさんが、次の瞬間ふわりと微笑んだ。
「おかえり、悟」
「…うん。ただいま」
ナマエさんを見る五条悟の瞳は砂糖菓子を更に煮詰めたみたいに甘ったるく優しい弧を描き、口元は柔らかな笑みを作っている。
あの五条悟がまるで、人馴れした大人しい猫のようだ。
『猛獣使いは私の学生時代のあだ名で、術式とは関係ないんですよ』
…なるほど、ナマエさんが服従させる猛獣とは、五条悟のことだったのか。
“五条悟の嫁は一般家庭出身の猛獣使い”
あの噂も、当たらずとも遠からず、というわけだ。
当主の挨拶があると言うことで、五条悟とナマエさんは会場に戻るそうだ。
「キミはどうする?休んでいても良いけど、戻るなら一緒に行く?」
五条悟とはこれ以上関わり合いたくないが、五条家当主の挨拶に参列しなかったとなればうちの狸ジジイどもがまたうるさい。しょうがなく、俺ははいと返事をして同行させて頂くことにした。
ナマエさんがキビキビと先頭を歩き、その後ろを五条悟が、さらにその後ろを、俺が歩く。
しばらくそのまま歩いていると、徐々に歩調を緩めた五条悟が、いつの間にか俺の隣に並んでいた。
…嫌な予感がする。
通り過ぎようと大股で踏み出した俺の肩を五条悟が抱き寄せて、耳元で囁いた。
「…次は無いよ、覚えといてね」
地を這うように低い、ドスの効いた声だった。
見上げた先で、五条悟がニヤリと笑う。
猛獣は決して、大人しくなどなっていなかったのだ。
「どうしたのー?」
俺たちがなかなか来ないからだろう。少し前を歩くナマエさんが振り返って、首を傾げている。
「何でもないよ。具合は大丈夫かなって、聞いてただけ。…ね?」
ギチッ
俺の肩に五条悟の指が食い込んだ。
「……ハイ」
「ふふ、仲良くなれたなら良かった」
ナマエさんが嬉しそうに笑うと、五条悟の頬にじんわりと朱がさした。ゆっくりと笑みの形に持ち上がる唇と、反して戸惑うように下がる眉は、溢れ出る愛おしさをどうしたらいいかわからない少年のようだ。
五条悟は神ではなかった。
神獣でも、大人しい猫でもなかった。
ナマエさんに恋をして、他の男に嫉妬する
…ただの人間だったのだ。