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言葉は、刃にならないかぎり、残らない。
それが悠翔のなかにある、ある種の「常識」だった。幼い頃からずっと、言葉は命令であり、否定であり、皮肉であり、時には無言の圧迫と一緒くたにされていた。
だから、ある日、バイト先で投げかけられたひとことが、ずっと胸の奥に残っていることに、彼自身が驚いた。
「……悠翔くん、笑った方がいいよ。笑うと、安心するから。俺が」
それは忙しい夕方のレジのすき間。年上の大学生スタッフが、雑談のように、ふと笑いながら言った。
声に棘はなかった。揶揄でもなかった。ただ、そのひとことが、悠翔のなかに、妙な沈黙を生んだ。
「……なんで?」
思わず、反射で返した声は、少しだけ掠れていた。
「うーん……君の笑ってない顔、ずっと疲れてるように見えるから。無理にとは言わないけど、今日、ちょっと嬉しそうに見えたから、なんか、安心したんだよ」
その言葉が、なぜか胸にひっかかった。安心――という感情が、自分を主語にして発されたことが、過去にあっただろうか。
「君がそうだったから、俺は嬉しかった」。
――ただそれだけの意味を、受け取ることに慣れていなかった。
その晩、炊飯器のふたを開けながら、ふと思い出す。
笑っていた、のか。自分が。
それは、おそらく、洗濯物が乾いていたときだった。あるいは、久しぶりに店頭で売れ残っていた半額の鮭弁当を見つけたとき。
何の意味もないはずの、小さな安堵。だが、その安堵が、表情に出ていたのなら――。
それが「誰かを安心させた」という事実に、戸惑う。
自分の安堵が、誰かにとっての「安心」になることが、今まであっただろうか。
――なかった。
むしろ、その逆ばかりだった。
声を出せば、「黙れ」と言われ。
泣けば、「うるさい」と殴られた。
笑えば、「何がおかしい」と押さえつけられた。
そうやって、声を形にすることを忘れていった。感情に名前をつけることを避けるようになった。
だから、笑っていた自分を誰かが「嬉しそう」と言ったことが、ただ、信じられなかった。
それでも、あの人の声は残っている。
笑うと、安心する――
ふと、手元のコップを見つめたまま、悠翔は小さく息を吐いた。
声は、やはり、形にならないままだ。けれど、その形の輪郭だけが、少しずつ、胸の中に滲んでいる。
それは、誰かを拒む声ではない。誰かの優しさを受けとめようとする、最初の「兆し」かもしれなかった。
ただそれだけのことに、まだ慣れない。
だからこそ、悠翔は気づかないふりをして、次の日もバイトに向かった。