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海なき海岸のビンガの町から、おおよそ南西の方角へユビスは喜びと誉れを胸に春の草原を駆ける。
ユカリを先頭に、アギノア、ヒューグの順で跨っている。ユビスは飛ぶように走り、足元は飛ぶように過ぎ去り、シグニカが統一される以前の戦火と疫病に踏み砕かれた廃墟が後方へと流れていく。かつてシグニカの英雄たちが火と槍と誇りを頼みに駆け抜けた草原は、春の真昼の太陽の下、青々とした絨毯で夏を迎えるべく広がっている。
ユカリは口を閉じ、行く先を睨み据え、ユビスの揺れに身を合わせる。
「ユカリさん。怒ってますか?」とアギノアがおずおずとしかし不躾に尋ねる。
一つ呼吸をしてからユカリは口を開く。「怒ってもいますけど、恐れの方が大きいですよ。あるべきでない結末が訪れれば、どうなってしまうのか。なぜ浄火の礼拝堂に行かなくてはならないのか、説明することさえできないんですか?」
その問いにはヒューグが答える。いや、答えない。「君が納得してくれるか分からないし、納得してもしなくても私たちの結論は変わらないからね」
やっぱり怒りの方が大きいかもしれない。
ユカリは相槌も打たずに沈黙する。しかしアギノアがすぐに口を開く。
「旅というのはいつも上手くいくわけではありませんね」
何を他人事のように、と思ったが言わなかった。
「こういう時は旅が楽しいとは思えません」とユカリは呟く。
「もちろん、そうでしょうとも」アギノアはユカリの背に向けて頷く。「嗅いだことのない香辛料を堪能することや聞いたことのない楽の音に身を任せることと同列には語れません。安楽は内にあり、悦楽は外にあり、とは言いますが、これは危なくて難しい困りごとですから」
「気分としては閉じこもっていたいですよ。そういう訳にもいかないですけど」
「こうなると分かっていれば、旅になんて出ませんでした?」
「それは、どうでしょうね。でも最初は成り行きでしたから」
ユカリは旅の始まりを思い返す。ずっと故郷のオンギ村を飛び出したいとは思っていたが、このような形を望むはずもなかった。ではどのような旅を望んでいたかというと。
商いの旅でも、巡礼の旅でもない。めくるめくような危険と隣り合わせの冒険の旅だ。見知らぬ土地、見慣れぬ慣習、光も音も匂いも味も手触りも何もかもが新しいが、飽きる前に出発して、困難を前に足を止めず、果敢に挑んで乗り越える。百世不磨に語り継がれるような大冒険だ。
だから今の状況を前向きに受け止めよう、なんてことにはならない。
なぜだろう。ユカリには答えが分かっていた。必ずしも困難を乗り越えられるわけではない、それだけのことだ。千の失敗は歴史の海に藻屑と消え、たった一つの偉大な成功は時代と土地を超えて語り継がれる。輝きに惹かれて身を焦がす蛾をユカリは思い浮かべた。どころか力尽きて地に落ちてしまいそうな状況だが。
「私も最初は成り行きでした」アギノアは懐かしむように呟く。「ちょっと無理矢理な成り行きでしたね。でも見つけ出してくれて、連れ出してくれて、今では良かったと思っています。初めての旅は失敗ばかりですが、ずっと閉じこもっていた私にはできなかった失敗ばかりです。ヒューグさんとのこの旅がずっと終わらなければ良いのですが」
こんな時にのろけ話など聞きたくないが耳を塞ぐわけにもいくまい、とユカリは諦める。
その時、「ユカリ」とヒューグが一言発する。
ユカリたちから見て左、東の方角から三騎、駆けてくるのが見える。行く先、正面、南西の方角にもまた三騎、廃墟に隠れて待ち伏せていたようだ。ユカリはわずかに西へ進行方向を変え、待ち伏せの出方を見極める。見たところ普通の馬だ。普通の馬以上に速いかどうかは分からないが、素直に追ってもユビスに追いつける速さではない。
白熊の重ね毛皮を身に纏っている偉丈夫を見つける。盗賊団の頭、ドボルグだ。真珠の最高傑作を早く海に放り込みたい気持ちはユカリも同じだが、今は議論している暇はない。
ユカリたちは盗賊たちを相手にせず、徐々に南西に進路を戻す。多少回り込むように走っても、南西に待ち伏せていた馬をかわせる、はずだった。しかし南西から迫っていた三騎が速度を落とし、ユカリは過ちに気づく。その奥に河が控えていた。どこからどこへ流れているのか見渡すが、地平線から地平線へ、だ。気が付けばさらに四騎が現れ、扇状に展開してユビスを河へ追い込もうとしている。
流れは緩く、水深は低そうだが、川幅は大きい。ここを渡ればユビスの長い毛は多量の水を吸い、その足の速さは普通の馬を下回るだろう。
「最悪の場合、戦いになるかもしれません」とユカリは覚悟を込めて言葉にする。「その時はお願いします」
「ああ、君の判断に従おう」とヒューグもまた意を決して応じる。「戦いになったならば、その時は持てる力の全てを尽くそう」
ユカリは毛長馬の長い鬣をなでる。「お願いね、ユビス」
出来る限り水の中を走らないで済むように、中州を経由することを狙って、ユビスの鼻先を向ける。ユビスは気合を入れるように大きく一つ嘶くと勇猛果敢に川へと飛び込んだ。盗賊たちも追ってくる。
そしてたちまちに追い抜かれ、中州にたどりついた頃には囲まれてしまった。ユビスは憤懣やるかたないようで、ユカリは首を掻いてやって宥める。
「ドボルグさん。聞いてください」白熊の毛皮のドボルグの方にユカリは顔を向ける。ユビスの鼻先は対岸へと向けたまま。「私たちは今朝まで海にいたのですが、あの真珠飾りの銀冠は探していたものではありませんでした。今は……今度こそ真珠の最高傑作がありそうなところへ向かってるんです」
盗賊たちの馬はユビスを捕食者に対して警戒するように嘶き、足踏みするばかりで近づいては来ない。しかし逃げたりもしない。
「ああ、ああ、いいんだ。嬢ちゃん」とドボルグは熊が唸るような声で言う。「こちらも事情が変わってな。言うなれば、そう、本業に戻るんだ。つまり盗賊にな。沢山の真珠を持っているって話じゃないか。それを全て寄越せ」
ユカリはドボルグに訴えかける。「フォーリオンの海に、やって来ない船に待ち人がいるんじゃないんですか?」
「言っただろう? 事情が変わった。海のことはもうどうでもいいんだよ。さあ、俺を待たせてくれるな」とドボルグは子供に言い聞かせるように言う。
「魔導書使いを警戒していた人とは思えませんね」とユカリは出遭ったばかりの頃を思い出して言う。
「それはもちろん、今では勝算があるのさ」
「グリュエー」とユカリが旅の供の名を呼ぶと、辺りを大きく渦巻くように風が唸る。
しかし馬が多少驚き、盗賊たちの身につけた衣がはためくが、誰一人吹き飛ばされる者も地面に転がされる者もいない。どころか、何人かの盗賊はにやにやと笑みを浮かべている。
「グリュエー、どうしたの?」とユカリは病の子を持つ母のように心配して声をかける。
「分かんない。全力、出してるはずなんだけど。でもなんかすり抜ける感じ」とグリュエーは要領の得ないことを言う。
ドボルグが勝ち誇ったように笑う。「どうやら風の魔法が上手くいかないらしいな、嬢ちゃん。実は気前のいい男に風から身を守る護符を貰ってな。半信半疑だったが効き目はあるようだ。理由は知らねえが、その風の魔法に嬢ちゃんの魔導書は手を貸していないんだってな」
ヘルヌスしか思い当たらないが、なぜそこが繋がるのか分からない。ユカリは打開策を求めて周囲を見渡す。
なにも思い浮かばないでいるとヒューグが朗々と発する。「盗賊の頭よ。宝飾品を全てくれてやるから私たちのことを見逃してくれ」
「話が違う!」とユカリがヒューグの提案に抗議する。「言ったでしょう!? 最高傑作を海に還さないとシグニカが海に沈むんだよ!?」
「やっぱり持ってるんじゃねえか」とドボルグに呆れられる。「何が『ありそうなところに向かってる』だ。つまらねえ嘘をつきやがって。それで? 海に還さないといけない真珠を抱えてどこに行くんだって?」
ドボルグが馬鹿にしたように笑うと盗賊たちも追随した。
「違う! それは――」と説明を試みようとするユカリをドボルグが遮る。
「いいからさっさと身ぐるみ全て置いていけ! 青銅鎧の兄ちゃんよお。あんたは盗賊ってものを分かってねえらしい。俺は全てを手に入れる。ねだってるわけでも交渉してえわけでもねえ。譲ってもらうんじゃあねえんだよ。まあ、手間をかけたくねえってのはある。素直に渡せば殺しはしねえ」
「では受け取れ」とヒューグが冷静に言う。
次の瞬間。ユカリの頭と盗賊たちと中州を跳び越えて、アギノアとヒューグの持ち物の全て、二つの鞄が川下の方へ放り投げられ、無数の真珠をばらまきながら弧を描き、流れに呑み込まれた。鞄は思いのほか速く川を流れていく。
そしてヒューグがユカリから手綱を取り、濡れたユビスを走らせる。身ぐるみの全てに気を取られた盗賊たちの隙を突いて囲いを突破し、中州を脱し、再び川に飛び込む。
ユビスはやはり追いつかれる速さでしか走れていないが、何人かの盗賊たちは身ぐるみを追い、しかし残りの盗賊たちもユカリたちを追っては来なかった。