シャリューレは大理石の壁をなぞるようにすぐそばを歩く。
その高い壁は本来初雪を固めたような白壁だが、中央高地の太陽が赤い残照で染め上げている。夕陽に染まる雲とジンテラの街並みに瀝青のような粘り気のある影は我が身の卑しさを知るかのように裏路地や下水溝に留まっている。信仰の街の控えめな窓は少しの間、栄光の如き黄金色の輝きを湛えたが遂には家中の橙色の明かりに染まる。沈みゆく太陽に額づくように家々は赤から紫へと変じ、神聖な夜に身を没していく。星々は遠慮がちに瞬いているが、多くない人々の行き交う通りであっても遠慮のない篝火によって昼間のように明るい。
西から東へ吹く風が顎をくすぐるように吹き、篝火をからかうように火の粉を零させる。シャリューレは微笑みを浮かべて、ただ一人で頷く。大きな白の門に目を向け、門衛の視線も気にせず数十歩離れたところで、立ち止まる。
救済機構において全てを把握している者の少ない数ある下部組織の中でも中枢を占める組織の一つ、恩寵審査会の寺院、聖ヴィクフォレータの恩寵寺院は一国の王宮にも劣らない巨大にして複雑、壮麗にして荘重な伽藍だ。
中心の雄大な円屋根と寄り添うように建つ八つの塔で構成されている様を以て亀の伽藍と称する者もいる。円屋根の頂には敷地と救済の未来を照らす篝火があり、八つの塔の頂上には知識と神秘と啓蒙を象徴する怪物、空を覆う眇の梟、夜を照らす者の彫像が羽を広げている。
その防備もまたその威容に相応しい。敷地を囲む白亜の壁は高く、八つの門はいずれも堅く、耳当て付きの帽子をかぶった厳めしい門衛の僧兵は腹を空かせた肉食の獣のように貪欲な眼光を光らせる。壁にはテンヴォの羽と称される模様化された呪文が刻印され、第五聖女ヴィクフォレータの坐像が見える範囲に一定間隔で彫り刻まれていた。只人には感じ取ることのできない無数の魔法が壁から醸し出され、不埒者を見逃さないように辺りをうろついている。
シャリューレは門の前で、その時を待つ。穂先に紅色の布飾りをつけた槍を持って直立不動の守衛が二人、どちらもシャリューレから目を離さないようにしている。
この時間帯に人通りは少なく、どれほどそこに立っていれば不審者と見なされるのか分からない。話しかけるには遠く、無視するには近い。シャリューレは四つの視線に臆することなく時を待つ。
そしてとうとう衛兵の片割れが苛立たしげに言う。「おい! さっきからそこで何をしている!?」
シャリューレは無感動に台本を読むように答える。「はい。そうですね。人を待ってます。あ、来たみたいですね」
シャリューレに応えるように正面の門が音を立てて開き始める。二人の守衛の態度からして、それが予期せぬことだと分かる。
「お待たせ。ちょっと遅くなったね」
少しだけ開いた隙間から現れたのはジェスランだ。二人の守衛にとっても見知った相手のようだったが、その男が左腕に麻布の包みを抱え、右手に段平を握っていることに気づいて、守衛たちは慌てて槍を構える。
ジェスランはその剣の剣先で門扉を軽く叩いた。するとその剣から霧の奥の鈴の音のような玲瓏たる響きが奏でられ、同時に藪に潜む蛇のように静かな敵意を秘めた魔法が紡がれる。神秘の夜を薄く包み込む静寂が引き裂かれ、寺院を恐れて近寄ることのない邪な魔性が不思議な音に惹かれて集まって来る。そして二人の僧兵は喉を抑えて苦悶の表情で喘ぎ、しかし一言を発することもなく、その場に倒れ込んだ。門や壁に仕込まれている献身的な魔法はその異常を察することなく、平穏な寺院を静かに見守っている。
ジェスランの合図でシャリューレは門へと近づく。二人は一人ずつ僧兵を肩に担ぎ上げると門の内へと入った。
ジェスランが唇と舌が重くなったかのように口を開く。「シャリュちゃん……。やっぱり芝居の方は……」
「何だ? 何が言いたい? 世辞なら後にしてくれ」
「……いや、何でもない」ジェスランは誰もいないシャリューレの背後に目をやる。「結局、彼は来なかったんだね。ヘルヌス君」
「そういえばそうだな。そもそもあれ以後一度も会っていない」とシャリューレは何でもないことのように平然と言う。
シャリューレの危機感の欠如にもう慣れてしまってジェスランもまた涼しい顔で呟く。「事故か、でなければ裏切りなのかな? まあ、おじさんが手を貸す分、お釣りがくるけどね」
シャリューレは真面目な顔をして頷く。「貴様なら奴よりは大きな働きを出来るだろう。真摯に取り組んでくれればの話だが」
「おじさんが言うのもなんだけどヘルヌス君に手厳しいね、シャリュちゃんは。師匠には向いてなさそうだ」
「そうかもしれない。教えようにも自分自身がよく分かっていないからな。貴様と同じだ」
「おじさんのこと、そんな風に思ってたんだ」
二人は泡を吹いて気を失った門衛を敷地の壁のそばの植え込みに隠し、己の身をも隠す。
「悪いけど、あれから特に更新できた情報はないよ」とジェスランは言った。
「そうか。やはりお釣りは無しか」
「いや、あるよ。あるある。お釣りはある。やはりってなんだよ。情報はないけど手土産がある」
ジェスランは慌てて持っていた麻布の包みを手早く広げる。中に入っていたのは少しくたびれた僧服だ。白地に黒糸でテンヴォの羽根模様が刺繍されている。また金糸の円と黒糸の円が耳当てに刺繍された僧帽もある。
「これは尼僧の僧服ね。手を伸ばす研究所の僧衣だから北東の塔に近づくなら気を付けて。僧位としては修道尼。謙虚な態度でいることだね」
シャリューレは僧服を手に取って矯めつ眇めつしつつ呟く。「恩寵審査会の僧服は部門ごとに違うのか」
「焚書機関や聖女会に比べると下位の部門が多いからね。見分けられるのは帽子の方だよ。耳当ての二つの円で区別できる。まあ、一々覗き込む者はいないと思うけど気を付けて。今の時間帯に活動しているのは拓く者たち部隊くらいのものだけど、研究熱心な恩寵師や不良学生がいないとも限らないからね」
ジェスランは周囲に目を光らせつつ一通り話した。
「ああ。どうだ? おかしなところはないか?」とシャリューレは尋ねる。
ジェスランは辺りを睨みつけながら言う。「うん。気づかれている様子はないし、いつもと違うことも起きていないね」
「そっちじゃなくてこの僧衣だ」
ジェスランの気づかない内にシャリューレは着替えていた。今まで着ていたシグニカ風の重ね毛皮の織物は躾のなってない子供がやるように脱ぎ散らかされている。
「シャリュちゃん……、変わってないところもあるんだね」と言ってジェスランはシャリューレの着物を回収する。「うん。問題ない。それと帽子を脱ぐのは人と会うために部屋に入った時だけ。建物内に入ってすぐに脱いではいけないよ。まあ、ばれはしないだろうけど、生真面目な人に睨みつけられるかもしれないからさ」
「剣はまずいか?」シャリューレは腰の剣を示して言った。
「言い訳次第かな。どう説明する?」
シャリューレは少し悩んだ後、ジェスランに剣を渡した。
「今一度聞くけど本当に中での協力はいらないの?」植え込みから出ようとしたシャリューレを呼び止めるようにジェスランは声をかけた。
「ああ、貴様を信頼していないからな」
「この期に及んで!?」
シャリューレは振り返ることなく亀の伽藍、恩寵審査会の寺院、聖ヴィクフォレータの恩寵寺院へと向かう。
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