うぅーん。
パジャマのまま部屋を出て、大きく伸びをした。
昨日は営業部の飲み会で飲んでしまった。
さすがに二日酔いってことはないが、体がだるいし頭も痛い。
幸い今日は土曜日だから一日かけて休もうと、普段より遅くまで寝てしまった。
午前9時。
遥は仕事だって言っていたからもう出たはず。
『せっかくの休日だから起こさずに行くよ』とメールが来ていた。
本当なら起きて朝食の準備でもと思ったけれど、体が動かなかった。
おかしいなあ、そんなに飲んだつもりはないんだけれど。
ピコン。
礼さんからのメール。
『昨日はお疲れ様。萌夏ちゃん、体調大丈夫?昨日は顔色がよくなかったようだから心配しています。何かあったら遠慮なく連絡をくださいね』
礼さんったら。
確かに昨日は普段よりお酒が回るのは早かった。
疲れがたまっているのかなって思っていたけれど、もしかして体調が悪いのかも。
そう言われてみれば少し熱っぽい気も・・・
とりあえず熱でも測ってみようと、萌夏はリビングの引き出しから体温計を取り出した。
その時、
ガチャッ。
玄関ドアの開く音がした。
***
えっ。
萌夏の動きが止まる。
遥がいない以上雪丸さんが勝手に入ってくるはずはないし、セキュリティーの厳重な高級マンションに泥棒が入るとも思えない。
可能性としては仕事に行ったはずの遥が途中で帰ってきたのかも。
一昨日まで風邪で寝込んでいたし、風邪がぶり返したってことも考えられる。
パタパタとスリッパの音をたてて近ずく足音。
なんだか遥とは違う気もするけれど・・・
自分から出ていく勇気もないまま、萌夏はリビングのドアが開くのを待った。
「あら」
ほどなくドアが開き入ってきた中年の女性が、萌夏を見て驚いた声を上げた。
もちろん萌夏の方も、突然のことに声が出ない。
「ごめんなさい。驚かせたわね」
先に話しかけたのは女性の方だった。
「いえ」
きっとこの人は遥の知り合いで、それも合鍵を渡すくらいの身近な人。
であれば、いきなりパジャマ姿でいた萌夏に驚いたのは相手の方だと思う。
遥だって同居している人間がいるなんて話していないだろうし。
「とりあえず、座りましょうか?」
「え、ええ」
誰の家なんだよと思うくらい女性のペースで、ソファーに向かい合って腰を下ろした。
***
「えっと、まずは自己紹介ね。私は平石琴子と言います。遥の母です」
「え?」
驚いた声を上げてしまった萌夏。
「どうしたの?」
「いえ・・・」
遥からお母さんは出産で亡くなったと聞いていたからつい反応してしまったが、この人は育ててくださったお母様。ってことは、
「平石財閥の、」
社長夫人と言いそうになった言葉を飲み込んだ。
「そうね。世間的には平石の家内と呼ばれることが多いわ。遥も同じ、平石の跡取りって見られているから、その生きにくさも感じていると思う」
「すみません」
なんだかいけないことを口走った気がする。
「あら、いいのよ。怒ったわけではないの。遥はいつも周りに気を遣うから、大した反抗期もなくここまできたの。その遥が女の子を自宅に住ませているって聞いて、気になってきてしまっただけだから」
「はあ、すみません」
もうすみませんしか出てこない。
大事に育てた息子が同棲を始めたって聞けばお母様としては気になって当然。
それが大学休学中のフリーターだなんて知れば、さぞがっかりすることだろう。
それでもまだ本当に恋人ならいいけれど、実際はただの居候だし。
これにはもう申し訳ない気持ちしかない。
「何であなたが謝るの?」
「それは・・・」
「こういうことは男の子の方が悪いの。謝るなら遥の方。嫁入り前のお嬢さんをマンションに連れ込んだんですからね。あなたの親御さんに申し開きができないわ」
連れ込んだとか申し開きとか、お母様の中でずいぶん誤解があるような気がする。
「あの、本当に違うんです」
やっと落ち着きを取り戻した萌夏は、ゆっくりと説明を始めた。
***
「と言うわけで、遥さんは私を気の毒に思ってここに置いてくださっているんです。それもアパートの頭金ができるまでの条件で、もう少しすれば私はここを出る予定ですから」
遥との出会いから同居までの経緯や平石建設に入った事情を、ありのままに話した。
「そうなの。そんなことがあったのね」
「勝手なことをしてすみません」
もう一度深く謝った。
お母様からすれば、面白い話ではないと思う。
大事な跡取り息子に訳の分からない女がまとわりついたんだから。
「息子に関わらないで。出て行って」と言われてもおかしくはない。
「ねえ、萌夏さん」
「はい」
思いの外穏やかな声で呼ばれ、萌夏は顔を上げた。
「遥から家のことはきいた?」
えっと、それは、
「遥さんが養子だって話ですか?」
「ええ、そう」
「聞きました」
嘘をつく必要もないだろうと素直に答えた。
「そう、話したのね」
お母様は何か考え込んだように言葉を止めた。
***
「遥はね、私の親友の子供なの。病気のために出産と同時に亡くなったけれど、とっても強くてきれいな人だった。私たち夫婦は亡くなる前に生まれてくる子を託されたのよ」
どこか遠くを見るようなお母様の目が、潤んで見えた。
きっと、色々な思いの中で遥を引き取る選択をしたんだろう。
遥から養子だって聞かされた時には、お金持ちの家に跡取りがいなくて引き取られた子供くらいにしか思わなかったけれど、そうではないんだ。
遥だから、引き取られた。
もっと言うなら、遥は平石の家に引き取られるために生まれた子なんだ。
「世間的に養子だなんて公表したことはないのよ。でも、平石は注目されることの多い家だから、遥のことを知っている人も多いの」
そうだろうと思う。
財閥御曹司の出生の秘密なんて、面白おかしく取り上げられそうなネタだもの。
「遥自身も苦しんだと思うわ。それでも、素直にまっすぐに育ってくれた」
「そう、ですね」
素直にまっすぐってところに引っかかって言葉が切れた。
フフフ。
「萌夏さんて、素直ね」
おかしそうに笑いだしたお母様。
「すみません」
「いいのよ。それだけ遥はあなたに気持ちを許しているってことね」
そう、かもしれない。
お互い遠慮なく何でも言いあえる関係だと自覚している。
「ところで、萌夏さんは体調が悪いの?」
「え?」
意外なことを言われ、ポカンと口を開けた。
***
確かに、頭痛はしている。
体もだるいし、ただの二日酔いではない気もする。
でも、
「ほら、それ」
お母様が萌夏の手を指さす。
あ、ああー。
体温計を持ったままだった。
萌夏は慌てて体温計をポケットにしまう。
しかし、
「あら、熱いわね」
目の前まで来ていたお母様が萌夏の額に手を当てていた。
「大丈夫です。きっと二日酔」
言いかけて萌夏が口を押える。
いけない、遥のお母様に何を言おうとしているんだろう。
フフフ。
「萌夏さん、本当に面白いわね」
「すみません」
絶対に誉め言葉じゃない。
案に、変わった子だと言われているのは萌夏にだってわかる。
「でも、二日酔いで熱は出ないわ。顔色だってよくないし、風邪でもひいたのかしら?」
「ああ、そうかもしれません。きっとそうです。少し前まで遥が風邪をひいていて、それがうつったんです」
「遥、風邪をひいたの?」
「え、えっと、熱は出たんですが病院にも行って一日寝たらよくなりましたから」
「病院に行ったのね。知らせてくれればいいのに。それに、一緒にいれば萌夏さんにうつることはわかりそうな物なのに」
「いえ、あの・・・すみません」
なんだか言えば言うだけ墓穴を掘る気がする。
「とにかく、遥は大丈夫です。私も昨日から倦怠感があったのに、部署の飲み会が断れなくて、すぐに帰るつもりが引き止められて3次会のカラオケまで付き合わされてしまって。ですから、気になさらないでください」
全ては自己責任ですからの思いを込めて一気に言った。
けれど、
「具合が悪いのに、なんで飲み会なんていくんだよっ」
えっ?
いきなり遥の声が聞こえ、萌夏は固まった。
***
朝早く仕事に行ったはずの遥がここにいるはずもないのに、とうとう空耳が聞こえるようになったのかと不安になった。
「おい、萌夏っ」
やだ、まだ聞こえる。
「萌夏さん」
固まってしまった私の前に、お母様が携帯を差し出している。
えっと・・・ああ、電話かあ。
お母様が遥に電話をしたんだ。
「萌夏、聞こえるか?」
「うん」
「熱があるって、いつからだよ」
「ええっと、気が付いたのは今朝だけれど、」
「でも、昨日から調子が悪かったんだろ?」
「う、ぅん」
きっとさっきのお母様との会話を聞かれているから、今更ごまかすことはできない。
「いいか、今日はおとなしく寝ていろ。熱が上がるようなら病院へ行くこと」
「大丈夫だよ。たいしたことな」
「萌夏、言うことを聞け」
「はぁい」
一昨日は自分が寝込んでいたくせに、偉そうに。
「母さん、悪いけど萌夏を頼むよ。俺も早く帰るようにするから」
「ええ、わかったわ」
「え、いや、待って。私は一人でだ」
「萌ー夏」
地を這うような遥の声。
「萌夏さん、諦めなさい。あなたがうんって言わないと遥が仕事を放りだして帰ってきてしまうわ」
「そんなあ・・・」
お母様の言う通り、ここで意地を張れば遥は強硬手段に出るかもしれない。
お母様に迷惑をかけるわけにはいかないのに、遥酷いよ。
***
お母様の前だからなのか、電話越しだからなのか、あまり文句を言うこともなく遥は電話を切った。
きっとネチネチと言われるんだろうと思っていた萌夏には意外だったけれど、きっと仕事中だからだと納得させた。
「ねえ萌夏さん、この総菜やお漬物はあなたが作ったの?」
パジャマ姿の萌夏をソファーに寝かせたまま、台所へ入っていったお母様の声。
「はい。残った野菜がもったいないのでまとめて作っただけです」
子供の頃からお客さんの多い家で育った。
家にはいつも誰かが来ていたし、おばあちゃんは誰が来てもいいように煮物や漬物を切らしたことがなかった。
「きちんとしたお母様に育てられたのねぇ」
萌夏の料理を母親譲りと思ったお母様。
萌夏はあえて否定しなかった。
「さあ、食べましょう」
大きなトレーにおにぎりと、萌夏が作ったお総菜や漬物を乗せてお母様が現れた。
「あぁ、でも、」
正直食欲がない。
「じゃあ、おかゆを作ってあげるから少しでも食べなさい」
そう言うと、お母様はもう一度台所に向かって行った。
***
「どう、食べられそう?」
「はい」
せっかくお母様が作ってくださったんだからと、萌夏はスプーンを口に運ぶ。
でもなあ、やっぱり欲しくない。
それでも・・・
「無理しなくていいわ。そうだ、アイスがあるのよ」
「アイスですか?」
「ええ、遥が好きなアイスがあってね。お土産に持ってきたの」
へえー。
遥の好物かあ。
いつも、どんな料理を出しても、おいしいと言って食べてくれる遥。
でもきっと、いいものを食べて育ってきたはずだし、舌だって肥えていると思う。
「はいどうぞ」
「いただきます」
小さなカップに入ったバニラのアイス。
パッケージに印刷されているロゴは超有名洋菓子店のもの。
うん、おいしい。
ミルク感があってさっぱりしていて、口どけも滑らか。
どこのお店のものかを知らなくても、高級なアイスクリームなのはわかる。
こんなもの、萌夏の実家では出てこなかった。
「美味しい?」
「はい」
お母様手作りのおかゆはなかなかスプーンが進まなかったのに、アイスはなぜかすんなり入ってあっという間に平らげた。
「あ、すみません。さっぱりして食べやすかったので・・・」
せっかく作ってもらったおかゆを残してしまったことに気づき、謝った。
「いいのよ、遥も子供の頃から体調を壊すと食事が進まなくて、アイスやジュースばかり口にしていたわ」
「ああ、それ、今も一緒です」
思わず言ってから、お母様の前でまずかったかなと後悔した。
これじゃあまるで彼女みたい。
あくまでも同居人、ただの居候なのに、一体何を考えているんだろう。
「ねえ萌夏さん」
自分の発言に落ち込んでいた萌夏をお母様が呼んだ。
「はい」
顔を上げると、まっすぐに見つめるお母様の視線。
その眼差しは意味がありそうで、萌夏は少しだけ背筋を伸ばした。
***
「遥って、ああ見えて人見知りなの」
「ええ」
知っている。
愛想がいいわけでもないし、興味のない人には口も利かない。
冷たいわけではないけれど、気安く人に心を許さない感じ。
「本当は優しい子なんだけれど、大人たちに囲まれて育ったせいか警戒心の強い子になってしまってね」
「そんな・・・」
遥のかたくなな性格は、警戒心と言うよりも自分の立場を自覚している証。
背負っている責任を理解しているからこそ、熟慮しているんだと思う。
「遥は気安く他人を家に入れる子ではないのよ。自分のテリトリーに人が入ることを嫌う子だから」
そう、かもしれない。でも、
「萌夏さんは、きっと特別なのね」
「いえ、それは」
違いますと否定しようとしてできなかった。
確かに、そうなのかもしれない。
その思いがどんな種類のものなのかは別にして、特別な人、大切な人であることは否定しない。
ピコン。
「あら、もう遥が着いたらしいわ」
チラッと携帯に目をやったお母様が楽しそうに言う。
「早いですね」
いつもはもっと遅いのに。
「萌夏さんのことが気になるんでしょ」
「そんな」
ガチャッ。
玄関の開く音。
ただいまも言わずに近ずく足音。
ヤダ、怒ってる?
***
「おかえりなさい」
「ただいま」
お母様に声をかけられ返事はしたものの、遥の視線はまっすぐ萌夏に向かっている。
「熱は?」
萌夏の横になっているソファーの前まで行き見下ろす顔はなぜか不機嫌そう。
「37度8分よ」
お母様が答えてくれた。
「なんでベットで寝ないんだ?ソファーじゃ休まらないだろう」
自分もソファーで寝ていたじゃないと言おうとして、やめた。
「食べてないのか?」
テーブルに残ったお粥を苦い表情で見つめる遥。
「だって」
自分だって食べられなかったじゃない。
「病院は?」
今度はお母様の方を向いて聞いている。
「熱はあるけれど水分は取れているし、お粥が食べれなくてもアイスは食べられたのよ」
お母様が言って下さり、
「本当に、大丈夫だから」
萌夏が言っても遥の表情は崩れない。
「薬は?」
「・・・」
「ほら」
リビングボードの引き出しから薬を取り出し遥が持ってきた。
薬を飲むのはあまり得意じゃない。
できることなら飲まずに済ませたいのに。
「萌夏」
さらに差し出された薬。
薬と、遥と、お母様。
三点をぐるりと見ながら、萌夏は渋々薬を受け取った。
***
「さあ、できたわよ」
お母様がトレーいっぱいの料理を持って現れる。
うわ、すごっ。
お店でしか見たこともないような立派なサイズのエビフライと、ポテトサラダ。
大きめのグラタン皿からはチーズが溶けたいい匂いがしている。
「はい、これは萌夏ちゃん」
差し出されたカップには琥珀色の液体。
うぅーん、いい匂い。
「コンソメスープなら入るでしょ?」
「ええ」
さすがにおかゆには向かわないけれど、あっさりしたスープなら食べられそう。
「「いただきます」」
遥と萌夏の声がそろった。
「うん、おいしい」
あっさりしているのにコクが深くて、野菜やお肉の味がしっかりして、隠し味だろうかほんのりと生姜の香り。
「野菜を小さく切って入れているから一緒に食べなさいね」
「はい」
さっきまで何も喉を通らないと思っていたのに、軟らかく煮た刻み野菜がどんどん入っていく。
「萌夏、これを入れるとうまいんだ」
遥が手元にあったパケットを小さくちぎって一切れだけスープに浮かべた。
えぇ?
こうやって浸して食べるんだとスプーンですくってくれて、
パクン。
「ううん、おいしー」
びっくりして目をキョロキョロする萌夏に、
「遥も好きだったわね」
お母様が笑っている。
きっとこれが遥のおふくろの味。
和食中心の手料理で育った萌夏には未知の世界。
こんなところで、住む世界の違いを感じてしまった。
その後も、萌夏を気遣い高そうなフルーツを出してくれるお母様。
風邪をひいてちょっと得をしたかもと、萌夏はニタニタしてしまった。
***
「おい、萌夏。昨日は営業の飲み会だったんだよな」
食事の片づけをするためにお母様が台所に立ち、2人になったリビング。
横になった萌夏の向こうで、遥が何か考えている。
「うん」
「メンバーは?」
「えっと、男性が4人と、女性が3人。みんな営業部の人よ」
「高野や礼もいたのか?」
「うん。礼さんは一次会で帰ったけれど男性陣はカラオケまでいて、最後は高野さんに送ってもらったわ」
「ふーん」
あら、不機嫌そう。
何だかとても嫌な予感がするなと思いながら、コンソメスープでおなかの満たされた萌夏は睡魔には勝てず眠り込んでしまった。
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