特別編「月夜に咲いた、約束の花」
その日は、珍しく満月が雲に隠れていた。
「今日は……静かね」
猫又亭のマスターは、カップを磨きながらぽつりと呟いた。
けれど、その言葉の裏には、何か遠い記憶の気配があった。
――月夜にだけ、思い出すことがある。
それはまだ“猫”だった頃。
人の言葉も、感情も分からず、ただ飢えと寒さの中を彷徨っていた時代。
そんなマスターを拾ったのは、ひとりの少女だった。
「名前は、まだないの? じゃあ……“シロ”って呼んでいい?」
白い毛並みだったから、ただそれだけの理由。
でも、その名はあたたかくて、心地よかった。
少女は病弱だった。
大きな病院の屋上から毎晩月を眺め、シロとふたりだけで言葉のいらない時間を過ごしていた。
「いいなぁ、猫は自由で……」
シロは何も答えなかった。
けれど、その日からずっと、彼女のそばを離れなかった。
やがて少女は言った。
「……もし私が死んでも、君が誰かの傍にいてあげてね。寂しい人って、ほんとにね、いるんだよ」
それは、子どもが言うには重すぎる願いだった。
けれどシロの心に、その“願い”は深く染みこんでいった。
少女がこの世を去った夜、満月が泣くように輝いていた。
そしてその光の下、シロは――“猫又”になった。
人の心に寄り添いたい。
寂しさを、少しだけ和らげてあげたい。
そう願って、名前を忘れ、姿を変え、長い時を経て、今ここで喫茶店を開いている。
「……人の心ってのは、不思議なものね」
マスターは磨き終えたカップを棚に戻し、ふと窓際の席に目をやる。
そこには誰もいない。
けれど、たしかに誰かがいた記憶と、微かな気配が残っていた。
「ま、約束はまだ終わっちゃいない。私はここで、待ってるだけよ」
カウンター越しに、ひとつ微笑んで――
猫又のマスターは、今日もまた、誰かの“寂しさ”を静かに迎え入れるのだった。