朝霧に包まれた路地裏のさらに奥、時を忘れたような路地の突き当たりに、喫茶猫又亭は今日もそっと暖簾を揺らしていた。
ぱたり、と風に押された扉の音が響く。
「いらっしゃいませ。本日も――」
「……久しいな。猫又よ」
入ってきたのは、古びた神具のような衣をまとった、白髪の青年だった。けれど、その顔立ちは年若く、眉には重ねた時の影をまとっている。背には大きな賽銭箱のような箱を背負い、手には細い神楽鈴を握っていた。
マスターは一瞬、手を止めたが、すぐに懐かしそうに目を細めた。
「まだこの町にいたとはね」
「……“いた”のではない。ここに“いたことすら、もう誰も覚えておらぬ”」
青年は肩を落とし、窓際の席へと歩く。その足音すら、まるで何かの祭礼の拍子のように静かだった。
「昔は、村のはずれに祠があってな。秋には神楽、春には花祭り……それが今では、祠は取り壊され、跡地には新築マンションだ」
「……」
「神は“忘れられた時点で”、存在を喪う。それでもまだ、わたしの名を思い出してくれる人間が、どこかにいるのではないかと……思って、さまよっていたのだ。いや、もしかしたら、“もういない”と気づいてしまったからこそ、ここに来たのかもしれぬな」
マスターは黙ってカウンターに立ち、湯を沸かし、香ばしい焙煎の香りを立たせた。
その香りに、青年はふと目を閉じた。
「懐かしい匂いだ。……お前の淹れる珈琲は、神酒にも似て、胸を温かくするな」
「この豆は、昔貴方が“祭礼の帰りにふるまわれた麦湯の香りに似ている”と言っていたやつよ。ちゃんと覚えてる」
――ちりん。
青年の手の鈴が、小さく鳴った。
「なあ、猫又よ。神とは、なんのために存在すると思う?」
「人の願いを叶えるため、じゃないの?」
「では、誰も願わなくなった時……神は、なにを拠り所に生きればよい?」
その問いには、マスターもすぐには答えられなかった。
「……」
「おれは、“願われたい”のではない。“忘れられたくなかった”だけなんだ。人の生をずっと見守ってきたのに、終われば誰も手を合わせず、記録にも残さない。それが“神の定め”なのかと、あまりにも寂しくなってしまった」
その言葉に、マスターは一つ頷く。
「じゃあ、今日は私が、貴方に願おうか」
「願う?」
「えぇ。“またここに来てちょうだい”ってね。
別に信仰じゃなくていい。うちでは、神様もお客様よ。ただのひとりとして、帰ってくる場所があるってだけで、少しは救われるもんよ」
青年の目に、微かに光が宿る。
「……願われたからには、応えねばな。神とは、そういうものだから」
カップに注がれた珈琲を口にすると、彼はほんの少し、肩の力を抜いたように見えた。
「……おかわりは、いくらだったか?」
「神さまには、最初の一杯もおかわりも、ぜんぶ“お気持ち”だよ」
「それなら、これでどうだ」
そう言って彼が差し出したのは、小さな干からびた木の実。
かつて、神前に供えられていた“まじないの実”だった。
マスターは静かにそれを受け取り、丁寧に、店の神棚にそっと供えた。
店の中に、一瞬、春祭りの笛のような音が聞こえたような気がした。
――今日も、猫又亭はまったり営業中。
忘れられた神様にも、温かい時間と、小さな居場所を。
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