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ひどい船酔いで気分は最悪だった。
先のアヘン戦争の戦後処理のため清へ向かったアーサーだが、その胸中は穏やかなものではなかった。ヴィクトリア女王のもとでパクス=ブリタニカとも呼ばれる空前絶後の繁栄を迎えたイギリスは、一方で労働者による政治運動であるチャーティスト運動や、喉に刺さった魚の小骨であるアイルランド問題を抱え、疲弊していたからである。
他方、対外的には大英帝国の名を各地に轟かせることに成功していた。1833年の東インド会社による中国貿易独占権の廃止は、野心あふれるイギリスの新興産業資本家たちの対中貿易を促し、結果として三角貿易という、アジアから見れば地獄の、イギリスから見れば天国のシステムを構築した。対中貿易が「うまくいってしまった」ことでかつてない自信を得、さらなる利益の追求を目指した資本家たちが戦争に向かったのは自然なことであると言えよう。本国でも反対の多かったこの戦争は、圧倒的軍事力による遺憾なき勝利を手に終わった。
しかし、浮かれる国民たちを尻目に、アーサーは複雑な思いを隠しきれずにいた。
ただ利益を追求し、極東の文化圏を破壊したツケがいずれ自分たちに返ってくるのではないか。
一千年を超えるほど生きた彼の経験則が、この勝利を手放しに喜ぶことを拒否したのだ。
なんとはなしに湧いたこの嫌な予感もまた、彼の気分を害する要因だった。
そんなわけで、アーサーは良いとは言い難い体調のまま、イギリス海軍戦列艦コーンウォリス上での条約締結に向かうこととなった。
清についてアーサーが知るところは、その実とても少ない。もとより自由貿易を掲げるイギリスでは、片貿易の時代はもっぱら東インド会社に、三角貿易になっても今度は多くの産業資本家に貿易は任せきりであったからだ。清、そして清の化身についてアーサーが知るのは、せいぜいそれが男性であってたくさんの弟子を抱えているとか、そんなものである。
故に、アーサーは少しばかりの緊張を持ってその日を迎えた。四千年生きたというまことしやかな噂を持つ彼が、一体どんな国であるのか、想像もできなかった。
交渉の卓についたあと、まず目についたのは、おかしな髪型だった。
弁髪というらしい。清、いや満州族の伝統的な髪型であるとか。
通訳にこっそり教えてもらったが、政府高官ともあろう者たちが一様にその奇妙なおさげを携える姿を不気味に感じた。清の人間から反発が来そうな感想を抱いたアーサーだが、誰だって知らないものは怖いのである。そんな中、一人だけその奇妙な髪型をせず、腰まで届く長い髪を一つに結わえている男、いや女か?が、いた。男女どちらとも取れる整った容姿をしたそれに、アーサーは直感的に彼がこの国の化身であると確信した。国の化身とは誰しも独特な雰囲気をまとっており、判別は容易だ。アヘンに蝕まれているのか国力の低下か、ひどい顔色にゆったりとした服でもわかるほどやせ細った彼に、アーサーは素直に憐れだな、と思った。かつての「眠れる獅子」の誰にでもわかるほど落ちぶれたその姿に。
条約は驚くほどスムーズに締結した。もとより清に逆らうことなどできようがなかったが、それでもここまでの不平等条約をあの清に結ばせたのだ、という満足感が誰ともなしに漂っていた。
無事に条約を結び終えた安堵で湧き立つ彼らを尻目に、アーサーはタバコを吸いに甲板へ出た。
潮風が心地いい。対外的な面倒事を一つ片付けた達成感が、じわじわと湧き上がる。
成果を持って帰れることに確かな喜びを感じていた。
「你…」
突如、声をかけてきた主を見て、驚いた。先程まで苦い顔をして卓についていた清の化身がそこにいた。
偶然に出会った二人だったが、彼もまたこちらの素性に気づいているらしい。国の化身のみに伝わる言葉で彼が言った。
「不平等な条約押し付けといて自分は呑気に煙草休憩か。いい御身分あるね」
奇妙な話し方をするやつだな、と思った。そして、見かけによらず粗野な男なのだな、とも。
「別にタバコを吸うくらい良いだろ。内政がうまくいってないからって俺に八つ当たりするなよ」
いきなりの不躾な言葉にやや苛立ちながら答えると、彼は小さく何かを呟いた。
「あ?なんだよ」
生来の柄の悪さで乱暴に尋ねると、彼は俯いていた顔を弾かれたように上げた。
「お前のっ、お前らの所為ある!我から金も、栄光も、すべてを奪っておいて、それに飽き足らず香港までっ…!」
彼の言わんとしていることがわかった。否、わかってしまった。
かつて弟と呼べる存在がいた自分だからこそ、今や家族と呼ぶにふさわしい兄たちを持つ自分だからこそ、家族を大事にする彼の気持ちはよく理解できた。
だからその言葉を聞いて、沸騰するような怒りを抱いた自分を、襟首を掴んでデッキに彼を押し付けた自分の行動を理解するのには時間がかかった。
暫時、無言の睨み合いが続く。
しばらくしてアーサーは、自分を突き動かす怒りが、かつて兄たちに杜撰に扱われ、ようやくできた弟を失った自分と、大切に扱われ、こうして負けてもなお彼を守ろうと果敢に反抗する家族を持つ香港との歪にあるのだと気がついた。
「口に気をつけろよ、眠れる獅子。俺は香港をどうしてやったっていいんだぜ」
怒りのまま出できた言葉は、まさしく虚構であった。いくらかつてのアーサーが海賊と恐れられ、数多の国を制圧してきたからといって、そこの国人までも陥れるほど残忍な性格はしていなかった。彼は人並みの感性を持っていた。自分の国の犠牲のみならず先住民族への自国人の振る舞いに心を痛めるほどには。そんなアーサーが本当に香港を「どうして」やることはできない。フランシスあたりが聞けば鼻で笑いそうな、単なる脅しだった。
しかしアーサーの本性を知らない彼には効果覿面である。アーサーの言葉に思わず目を見開いた彼は、すぐさま眼光を鋭く光らせ「香港になにかしてみろ。お前を殺してやる」とうなった。
「できるもんならやってみろよ」
ふん、と鼻を鳴らして彼の襟首から手を離した。いつの間に力を入れすぎていたらしい。崩れ落ちた彼がごほごほと咳き込んだ。
「ああ、ちょうどいい。お前、名前なんて言うんだ?」
おおよそこの場にふさわしくない明るい声が響く。清を打ち負かした歓喜が、言いようのない興奮が、彼のうちをぐるぐると渦巻いていた。
香港の脅しはよほど効果があったのか、さしたる抵抗もなく彼は名乗った。
「…王耀」
「王耀か。いい名前だ。俺はアーサー・カークランドだ。よろしくな」
握手を求めて手を差し出すと、耀は信じられないものを見る目でこちらを見た。
やめろやめろ、そんな不気味なものを見る目で俺を見るんじゃねえ。
アーサーは笑い出しそうだった。かつて家族を失い、兄に嫌われていた自分自身を打ち負かしたような、奇妙な歓喜に襲われていた。