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アーサーが再び中国の地を踏んだのは、それから14年後のことだった。
香港はとてもできた男だった。割譲されてよかったと心から思う。東アジアにおけるイギリスの威信を背負い、今や最大の貿易港に成長した。引き取った最初のうちは毎晩「先生、先生」と家族を求めて泣いており、アーサーもそれに心を傷めないわけではなかった。が、最近はむしろ嫌な方向に成長を見せている彼に、出会った当初の純真さを返してほしいとすら思っている。
そして香港を一大貿易港として育て上げれば、イギリス本国がさらなる利益、すなわち九頭竜半島全域を求めるようになったのは、自然なことであった。ちょうどその時期に広州の港でイギリス船員の中国人が清の官憲に逮捕されたことは、さらに戦争に対する世論の後押しを招いた。
もっともそれに「宣教師殺害事件」を口実にフランスが参戦してくるのは予想外であったが。
1854年からロシアとの間に起きていたクリミア戦争で英仏ともに疲弊していたため、フランスの参戦はさしたる抵抗もなくイギリス側に受け入れられた。世界の工場となり第一回万博も成功させ名実ともに覇権を握りつつあるイギリスに、ナポレオンの甥であるルイ=ナポレオンによる第二帝政が開かれ、国内をかつての英雄の威光でもってまとめ上げたフランス。51年から続く宗教結社による、いまだ終わりの兆しの見えない反乱とすっかり求心力を失って内部から瓦解していく清王朝に勝ち目などあるはずもなかった。
「悪い顔してるねえ、坊っちゃん」
声をかけてきたフランシスに軽く視線をくれてやる。
クリミア戦争の勝利でロシアの南下を止めてみせ、更に清に共同出兵したことで期せずして協力関係となった両国だが、数世紀に渡る仲の悪さは健在なのである。
「清には可哀想なことをしたよな」
それは全くのアーサーの本心であったが、同時に全くの空虚な発言であった。
内乱の続く清に好機とばかりに攻め入ったのは他でもないイギリスであったのだから。
「まあ、さすがにどんな無茶な条件出しても清は飲むしかないでしょ。…そうだアーサー、賭けをしないか」
「賭け?」
「そう。どこまで清が条件を飲むかの、賭け」
幾分かの良心を併せ持つアーサーは、フランシスの提案に一瞬眉をひそめたが、大帝国としての自信が良心に勝った。
「いいぜ。まず貿易港の開港な」
「広州、上海、厦門、福州、寧波。次はどこを開かせる?大英帝国サマ」
「プラス10は開かせてえな。台湾や南京」
「10?大きく出るねえ」
「お前はどれくらいいけると思う?フランシス」
「せいぜい5とかじゃない?南京は無理だろうさ」
「そこを開かせるのが俺達の役目だろう」
「違いないな」
清に向かう船上で、さても恐ろしい計画が、まるで今日のランチメニューを決めるかのように行われていた。
イギリス、もといアーサーには自信があった。それはフランシスも同様だろう。
ここ最近負け無しの進んだ我々西洋が、たとえどんな無茶な要求を突きつけても、あの弱った元獅子は断れないだろうという自信が。
だから、まさか清が身の程知らずにも要求を突っぱねてくるとは思わなかったのだ。
出鼻をくじかれた二国が報復攻撃に出たのも当然と言えたし、誰もそれを責める道理を持ち合わせていないはずだった。
美しき円明園を徹底的に破壊した時、良心がちくりといたんだが、そもそも清が傲慢にも条約調印を拒否しなければよかったのだ、と責任を負うことはしなかった。自分たちが清にあまりにも尊厳を無視した無茶な要求を突きつけたことが今回の事態を引き起こしているのだということも知らぬふりをした。
二度目の条約締結はスムーズに行われた。もはや清に抵抗する力が残っていなかったという方が正しい。三度目の邂逅となった王耀は、さらにくたびれ、覇気を失っているようだった。
それを見たアーサーの中に、ゾクゾクするような興奮とたまらない庇護欲が生まれ、隠しきれなかったそれらの感情は、あの変態と名高いフランシスに注意されるほどだった。
条約締結の後、侍女を脅して耀の部屋に押し入る。
制御不能で正体不明の感情に突き動かされつつも、一方で冷静な自分がその感情の所在を疑問に感じてもいた。初めてだった。これほどまでに自分が暴走することが。まかりなりにも英国紳士である自分は、冷静で理知的、そして人並みの良心を持ち合わせているはずだったからだ。
いや、思えば妙だったのだ。
初めて出会ったときもそうだった。いくら自分の体調が最悪で、彼の態度が自分のコンプレックスを刺激したからと言って、初対面の相手に沸騰するような怒りを覚え、あまつさえ暴力に出るなど、普段のアーサーであればまずありえないことであった。
そこまで考えて、ゾクリとした。彼のせいで自分はなにか得体のしれないものへと変わっていってしまっている。このままではいけない。彼を排除しなければ。元の自分を取り戻すために。
「なんの用あるか」
気だるげに寝台へ身を横たえる彼は、当然の来訪者に眉をひそめた。
アーサーはそれに答えることなく寝台へ歩を進める。
無視された挙げ句の不躾な態度に腹がたった耀が、少し声を荒げた。
「勝手に人の部屋に入ってんじゃねえ!」
ただ、言葉とは裏腹に、体調の悪さからか顔を青ざめた彼は、それ以上の行動を起こせないようだった。声を荒げただけで息を切らす彼に、ゾクゾクとアーサーの背を興奮が駆け上がる。
「うるせえよ」
うるせえよ。なあ、教えろよ。お前、俺に何してくれやがったんだ。俺はこんな人間じゃないはずだ、そうだろう。
_人の苦しむ姿を見て、歓喜に湧き立つような、そんな人間では。
「何、何言ってるある…」
こちらの様子のおかしさに気づいたのか、耀がかすかに声を震わせる。
「お前のせいなんだ。お前が、俺をおかしくした」
寝台に乗り上げ、耀の首を締め上げた。
「なあ、おかしいだろ。今俺が何を考えているのかわかるか?人の首を絞めて、それで俺は今、嬉しいんだ。なあ、俺はこんな人間じゃなかったはずだ。お前が、俺を狂わせた」
手を離すと、急激な酸素の供給に耀が身を丸めて咳き込む。
既視感。初めて会ったときもそうだった。
自分が、声を上げて笑っていることに気づいた。暴走機関車のようだった。汽笛が、警告音が、頭の中で鳴り響く。
彼の衣服の袂に手を遣った。彼が短く悲鳴を上げた。外に聞こえたら困るだろ、と革の手袋を口に押し込んだ。彼は泣いていた。そして俺は、笑っていた。