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第八十一話 守ろうとしたもの
「……誰かを、守ろうとしてた」
その言葉を口にしてから、彼は動けなくなった。
頭の中に残っているのは、雨の景色。
建物の裏。
伸ばされた手。
そして、その手を掴もうとしている自分。
でも、それだけだった。
「誰を……?」
彼女の声が静かに響く。
「分からない」
彼は首を横に振った。
「顔も見えない。でも、あの人が危ないと思って……」
そこで言葉が途切れる。
「俺、走ってた」
「その人のところへ?」
「うん」
彼は目を閉じた。
すると、また一瞬だけ記憶が浮かんだ。
雨の中。
誰かがこちらを振り返る。
青いリボン。
その人の手には、小さな箱。
そして――
『来ないで』
「……っ」
彼は目を開けた。
「今、何か思い出した?」
「『来ないで』って言われた」
彼女の表情が変わる。
「じゃあ、その人は自分から危険な場所にいたの?」
「分からない」
「でも、あなたはその人を助けようとした」
彼は頷いた。
「たぶん」
二人は建物の裏をもう一度見渡した。
さっきまでとは景色が違って見える。
ただの古い路地ではない。
ここで事故の直前、自分は誰かを追っていた。
いや――
追っていたというより、止めようとしていた。
「……あれ」
彼女が足元を指差した。
建物の壁際。
雨で汚れた地面に、細い金属片が落ちている。
彼が拾い上げる。
「これ……」
小さなプレートのようなものだった。
表面には、あの印が刻まれている。
丸に一本線。
裏側には文字があった。
『守るものを間違えないで』
彼はその言葉を見つめた。
「守るもの……」
「どういう意味だろう」
彼女が尋ねる。
「分からない」
彼は金属片を握った。
けれど、その瞬間。
指先から記憶が広がった。
――雨。
――走る自分。
――誰かの声。
『それを渡したら、戻って』
『でも……』
『お願い』
そして、自分が答える。
『分かった』
「……」
彼は息を呑んだ。
「俺、約束してた」
「何を?」
「分からない。でも……『戻る』って」
彼女はすぐにスマホを取り出した。
「前に見つけた事故の日の記録」
カレンダー。
古い写真。
店の記録。
二人で集めてきたものを確認していく。
そして彼女が、一つの記録を見つけた。
「これ……」
事故の日の予定。
以前から何度も見てきたものだった。
そこには『渡す』とだけ書かれている。
でも、その横に薄く別の文字が残っていた。
「今まで気づかなかった……」
彼が画面を覗き込む。
『戻る』
「……」
彼の胸が締めつけられる。
「やっぱり、俺は戻ろうとしてた」
「何をするために?」
彼はしばらく黙った。
そして、ゆっくり言った。
「たぶん……約束を守るため」
そのとき、スマホが震えた。
知らない番号からだった。
『そこまで思い出したなら、もう一つだけ』
二人は画面を見る。
『君が守ろうとした人は、君を守ろうとしていた』
「……どういうこと?」
彼が返信する。
すぐに既読がついた。
『事故の直前、君はその人を助けようとした』
『でも、その人も君を止めようとした』
彼は言葉を失った。
『だから、二人とも同じ場所にいた』
彼女が顔を上げる。
「……同じ場所にいた?」
「うん」
「じゃあ、事故の瞬間に……」
彼は続きを言えなかった。
もしその人が自分を守ろうとしていたのなら。
なぜ、自分はその人の存在を忘れているのか。
そして、なぜその人もまた、
自分に何かを残しているのか。
最後のメッセージが届いた。
『君が失ったのは、その人との記憶だけじゃない』
彼の指が止まる。
『その人と交わした、最後の約束もだ』
彼はゆっくりと顔を上げた。
雨の記憶が、また浮かぶ。
目の前にいる誰か。
伸ばされた手。
握りしめた箱。
そして――
自分が最後に言った言葉。
まだ全部は聞こえない。
ただ、その言葉の最後だけが、かすかに残っていた。
「……待ってて」
彼自身の声だった。
コメント
1件
うわっ、第81話めっちゃ沁みた……。「守るものを間違えないで」ってプレートの文言、あれだけで背筋が伸びるというか。互いに守ろうとしてて、でもどっちも覚えてなくて、最後の「待ってて」が切なすぎるわ。記憶のピースが少しずつハマっていく感じ、ちゃんと設計されてて好き。続きが気になる🔥